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スイス法会での説法

李 洪 志

一九九八年九月四、五日 ジュネーブにて



 皆さん、こんにちは!

 ここには、シンガポール法会に参加したばかりの人や、他の国や地域から駆けつけて来た人もいれば、新しい学習者もいます。法会を開く目的は、法会を通じて皆さんが修煉の中でお互いを参考にして、自分の足りないところを見出し、共に向上するところにあります。同時に、法会を開くこと自体も法を広めているのです。私たちが行うすべてのことは、皆さんの修煉のため、向上のためでもあり、決して形式的なものになってはいけません。ですから、将来いかなるときも法会を開く際、このような原則に基づいて本当に学習者を向上させ、着実にこの目的に達成できるものであって、初めてこのような会を開くことができるのです。法会の開催が頻繁で多すぎると、お互いに見比べるような現象が現れがちです。あなたがこのように開催すれば、私はあのようにするといった具合で、みな人間の心を抱いていれば、それではいけません。私たちは法に基づいて、完全に学習者の修煉のために法会を開くべきです。

 ここに古い学習者が多くいますが、皆さんにお会いしてとても嬉しく思います。私たちは確かに修煉の道で勇猛邁進して己を高めています。皆さんの変化は皆さん自身には今のところまだ見えませんが、変化は非常に大きいのです。これは近い将来に実証され、見ることができます。ですから、私は非常に嬉しく思っています。

 皆さんは最近の修煉において、法会での私の説法を聞き、また『轉法輪』を絶えず深く勉強しているので、多くのさまざまな真相の現れが見え、法に対して異なるさらに深い理解を得ることができるはずです。同時に、私はさらに皆さんの修煉の過程、およびもう一種の宇宙の構造に対する認識についてお話したいと思います。まず宇宙のもう一種の構造について話します。ここで一つだけ言っておきたいのですが、宇宙は実際のところ法によって構成されたのです。私が宇宙について話をするのは、決して現在の科学を高い境地まで発展させるためではなく、知識として皆さんに教えるのでもなく、皆さんが修煉できるようにするためです。それは法と相補うものなので、皆さんを異なる境地まで修煉させることが目的です。つまり、皆さんは異なる境地にあるあなたの生まれたところ、宇宙の異なる次元、異なる境地に戻るのです。この宇宙の大きさはすなわち、法の大きさです。皆さんの考えにとってこれは未知の概念です。今日、私は別の角度から話しますが、皆さんの考えがついて来られるかどうか見てみましょう。

 まずこの宇宙について話します。つまり、宇宙について話すということは、実は物質について、そして物質に対する認識について話すことになります。現代科学の物質に対する認識のレベルがいくら高くても、まだ極めて浅はかなものであり、しかも宇宙全体と比べれば、全く話にもならず、比べものにもなりません。皆さんは知っているように、私はこの宇宙が基本粒子によって構成されていると話しました。基本粒子は何から構成されているのでしょうか? これは具体的に話さなければなりません。異なる天体の次元という概念において(異なる宇宙の次元ではなく)、天体はどれほど大きいのでしょうか? その中の一層の天体の範囲は非常に大きいのです。しかし、それらが規則的に、平均して何層かの宇宙が一層の天体を構成しているのではありません。およそ一万層以上のものもあれば、一億層以上の宇宙が一層の天体を構成している場合もあります。この概念はとてつもなく大きいのです。ですから、それぞれ一層の天体は想像できないほど厖大な宇宙の範囲になります。

 人々が宇宙の概念について話すとき、ほとんどの場合は認識できる範囲にあるいくつかの星系について話しており、現在、科学が観察できた範囲は、つまり人々が言っている小宇宙のことです。私は地球という基点からお話します。この小宇宙は、三千個の私たちのような大きさの小宇宙によって第二層の宇宙が構成されました。さらに、三千個の第二層の宇宙の大きさの宇宙によって第三層の宇宙が構成されました。その倍数は相当大きいのですが、それは一つの基点から展開して話しているにすぎません。しかし、地球のような大きさの粒子は宇宙において一つだけではなく、地球とほぼ同じ大きさの粒子は宇宙に遍く分布しており、計り知れないほどあります。先ほどは宇宙の拡大する倍数を一つの粒子の基点から話しましたが、実はそれが天体全体のあらゆるところに広がっているので、一切の一切の中にこのような大きさの粒子があります。みなこのように展開できる体系を持っており、大から小、小から大に展開しています。この小宇宙という一層は人類にとってすでに相当、相当大きいもので、中にどれほどの大きさの異なる星の粒子があるか数えることができません。なぜでしょうか? 非常に高い次元にいる佛、神、道はすべてを洞察することができますが、しかし誰も塵埃がどれくらいあるか調べようとはしません。実は星は厖大な天体の中で、一粒の塵埃のように宇宙天体の中に漂っているだけなのです。

 三千個のこのような大きさの宇宙は絶えずその範囲を拡大、展開し、絶えずその体系を拡大、展開し、およそ千層前後になると、第一層の天体の体系範囲を突破します。しかし、この範囲も一つだけではなく、厖大な宇宙の中でそれも一つの粒子にすぎず、この層の粒子も茫々たる天体に遍く分布しています。この範囲を出ると、すべてが空の状態になります。どれほど空なのでしょうか? この体系のあらゆる物質はそこに入れば、自ら解体してしまうことになります。なぜなら、この体系範囲内にあるあらゆる物質には生命があり、特性があり、思想があるからです。このようなミクロ的な空の中に入ると、まるでこの粒子はすでに思想と生命を持つことができなくなったかのように、瞬時に解体してしまいます。つまり、いかなるものであっても落ちると解体してしまうのです。このように話せば、この概念について皆さんは理解しやすいのです。しかし、この空の範囲を超えた後、実はまだ他の天体、さらに大きい範囲の天体があります。しかし、この境地の生命はその中に一歩も立ち入ることができません。なぜならば、さらに、さらにミクロ的なところには、さらにミクロ的な要素が存在しているからです。しかし、さらに大きな範囲になると、その天体の物質と生命の概念がすべて変わり、物質の概念はすでに存在しなくなります。この天体の範囲において、宇宙の層の数は異なります。しかし、各層の天体を構成する最もミクロ的な最も基本の粒子があります。そして、基本の粒子はすべて真・善・忍という宇宙の特性の組み合わせによって造られているのです。

 ここで話している概念はとても複雑ですが、人間の言葉が限られているので、皆さんは注意して聞いてください。例えば、ある層の天体の最大の顆粒物質も、それ自身の体系の限りなくミクロ的な粒子から大きな一層の粒子を構成しており、これを横方向の粒子の組み合わせ体系と呼びます。つまり、物質の粒子は縦方向のミクロ的な体系からの組み合わせによってできただけでなく、同時に、それ自身も自ら構成した体系のミクロからさらに大きい、さらに更に大きい物質によって構成されたものです。つまり、この体系にある各層の大きさの異なる粒子自身も、ミクロ的な物質から構成された体系です。しかし、この体系にある各層の大きさの異なる粒子も遍く分布しているので、大きさの異なる粒子の間にまた横方向の組み合わせ体系も構成しています。そのため、その最も基本的な粒子はその最大の層の粒子まで遥か遠く離れています。

 では、最も本源的な物質とは最終的に何でしょうか? それは水です。しかし、私が言っているこの水は常人社会の水ではなく、異なる次元に存在する江、川、湖、海の水でもありません。この水はその一層の天体にあるすべての物質と生命を造り出しており、本源だと言ってもいいのですが、本源と呼ぶしかありません。しかし、この水はまた私たちが認識している常人の空間のような水の概念とは異なります。正確に言えば、死水と呼ぶべきです。なぜなら、それは動かないからです。完全に静止して動かないので、何かを投げ込んでもさざ波も起きることなく、水切りもありません。

 水について話していますが、まず人間世界の水について話しましょう。人間の科学で例をあげて説明してもいいのです。私たちがいるこの常人社会では、皆さんも知っているように、現在、科学者が説く有機物と無機物は、実質上、この空間だけに限られた認識です。物質の構成は表面のこの空間の物質だけではなく、通常、科学者は木、花、草、植物、動物、人間も含めて、この空間で人間が生命があると思うものを、有機物だと認識しています。実際は、これらのものはすべてこの空間の水で構成されています。皆さんも知っているように、私たちの身体の九十パーセント以上が水です。つまり、私たち人間もこの空間の水によって構成されているのです。以前に私は、水が万事万物を構成できると言いましたが、現在の科学者はまだそこまで探測できていません。しかし、この物質空間の水から野菜を生育することができます。手で野菜を絞って、絞って、絞り続ければ、最後には何も残らず、ただ葉緑素だけが残ります。特殊な処理を施すと葉緑素も残らず、すべてが水になってしまいます。この空間のすべて、人々が認識している有機物質は、実はすべてこの空間の水からできており、つまり水がすべてを形成し、すべてを造り出したのです。

 一方、認識された無機物質も、実は皆さんに教えますが、それはさらに高い次元の水からできているのです。しかし、現在の科学ではそれを認識できないため、生命がないと考えられていますが、実際には生命があります。その生命の存在形式は、現在の科学が認識できるものとはかけ離れています。彼らが現在の観念に沿って発展していけば、永遠に認識することはできません。昔、中国古代の修煉界でこのような話がありました。ある神仙は非常に優れた能力を持っており、石を鍋に入れて水を搾り出すことができました。笑い話のように聞こえますが、実質はそうではありません。この宇宙が構成した天体の範囲内に存在する、あらゆる物体の最も基点はみな、水からなのです。さらにミクロ的な水はどのようなものでしょうか? そして、さらに更にミクロ的な水はどのようなものでしょうか? それは不可思議で、想像のできないものです。ですから、一つの概念にすぎないと、皆さんにお話しました。

 先ほど、異なる次元の粒子にみな最も本源、最も本源的な要素があると話しました。しかし、この粒子全体には縦方向の順序もあれば、横方向の順序もあります。私たちが地球にいて、いくつかの銀河系が一つの宇宙を構成し、いくつかの宇宙がさらに大きい範囲の宇宙を構成するかのようです。ここでは地球を一つの基点として話していますが、私たち人間がここにいて、私がここで法を説いているので、地球を基点としました。しかし、地球が宇宙のすべての物質の基点では決してありません。私たちは自分が見た周りのすべての物質を、最も物質的なものだと認識しています。これまでの説法では、皆さんの思想を混乱させないように、それを最低の物質として話しました。実はそれが唯一の物質的なものではなく、それを基本物質と言ってもいいのですが、別の言い方をすれば、まだ超物質、さらに超物質、さらに更に超物質……もあります。

 地球はこの三界の空間の中心に位置していますが、縦方向にしても、横方向にしても、顆粒の大きさにしても、地球は中心にあります。地球の質量よりさらに大きなこのような物質もまだ存在しますが、それは私がこれまでに話した質量とは異なります。原子や、原子核で構成された質量が大きいなど、この概念ではありません。これらすべては人類が認識できる物質です。私が話しているのは超物質であり、人類の空間の物質とは完全に異なります。しかし、顆粒にしても、表面の構成状態にしても、みなこの空間の物質を超えています。ですから、最も大きい超物質の基点は三界の辺縁にあり、最も小さい物質の基点も同様に三界の辺縁にあります。人類の空間は大小の物質の中間にあり、これがすなわち人類が認識している物質の基点です。それでは、人間のこの空間のすべてを物質と呼ぶならば、三界内にある人間世界の物質より小さいものを非物質、さらに小さいものを非非物質と呼ぶことになり、三界の最も小さい粒子まで至ります。以前、宇宙の中の大きさの概念は、われわれ常人が認識する大きさの概念のようではないと話しましたが、つまりこの意味です。

 天体宇宙全体も同じです。粒子はみな生きており、生命があるのです。それでは皆さん考えてみてください。その宇宙がいくら大きな範囲であっても、それも生きているのです。しかし、天体の範囲内には無数の無数の大きさの異なる粒子があり、それらも一つ一つの生命体として存在しています。この宇宙に何層の天があるのでしょうか? 何層の宇宙があるのでしょうか? 何層の天体があるのでしょうか? 中のいかなる生命はみな、この宇宙の厖大さと複雑さを推し量ることができません。私が説いた天体という概念は、千万層以上の宇宙で構成されていますが、それもこの無限で厖大な宇宙の一粒の塵埃にすぎず、非常に小さい粒子です。もしあなたが遥かに遠いところにたどり着くことができ振り返ってみれば、それは人が砂を見るときよりも小さく感じるでしょう。さらに遠いところから見れば塵埃よりも小さいのです。さらに遠くなれば全く見えなくなります。はっきり言うと、先ほど皆さんにいろいろ話しましたが、宇宙全体は粒子から粒子を構成し、さらに粒子から粒子を構成しているかのよう見えます。実は、さらに広大なところから見れば、もはや粒子によって構成されているとは言えなくなり、それを表現する言葉もなく、人間に説明することもできません。

 しかし、人間の思想にはどうしても限界があり、私が粒子から粒子を構成したと話すことによって、皆さんをまたある単純な論理に導いてしまいましたが、実はそういうことではありません。宇宙の構造は複雑で、人間の言葉でははっきりと表現することができず、しかも私たちの空間から離れると、思想、時間、空間、生命の形態など、すべて変わり、特に時空が異なります。粒子と粒子の間に大きな差異があります。例えば、星と星の間には距離があることを皆さんは知っていますが、その距離は相当遠いものです。しかし皆さんは知っているでしょうか。私たちの身体、木材、空気、水などのすべては、みな分子で構成されています。分子も一層の粒子ですが、この層の粒子は星とわずか一層の違いだけです。つまり星より小さい粒子の中で最も大きいのは分子です。分子より小さい粒子の中で最も大きい粒子は原子です。それでは分子と原子の間の距離は、私たち人間の概念で見れば、距離がないほど近いものだと思われています。しかし、もしその状態に入れば、中に同様にその空間の時間と状態があり、それも一つの極めて果てしなく広い空間であることに気づきます。すべての層がこのようです。分子と星の間に立って見れば、天体は非常に大きいと感じますが、もし原子と分子の間に立てば、その天体がもっと広いと感じます。つまり、その時間と空間の状態に符合して、初めてそれを認識することができます。

 先ほどの話は、星と星が相当離れているのに対して、私たち人間の概念で認識すれば、分子と分子の間は非常に近いと感じられますが、実はそれも相当離れているということを、皆さんに教えました。粒子は私たち人間、各種の動物、各種の植物、木材、セメント、鉄鋼、および私たちの生存に必要な空気など、無数の生命を構成できます。以前私は、実は人間が土の中で生存していると話しました。私たちは虫が土の中でうごめいていることを知っています。皆さん知っていますか? 神も私たちをそのように見ており、人間も土の中でうごめいているのです。なぜでしょうか? 私たち人間は土を見て、それを土だと思いますが、神はすべての分子、つまり三界の中の分子をみな、土と見ています。しかも最も荒い物質、最も汚い物質であり、神はそれを土だと認識しています。確かに土です。ですから、皆さん考えてみてください。神はこの宇宙、この世界をどのように見ているのでしょうか? 空気は分子で構成され、あなたの周りにあるすべての環境もみな、分子で構成されており、この空間の水も分子で構成され、空気までもそうです。神は分子を土だと見ているので、あなたは完全に土に埋められています。人間は土の中を這いまわっており、このような環境の中で生存しています。このように話せば、皆さんは多分、なぜ西洋の宗教のエホバ、あるいは(JESUS)イエスが「神は泥で人間を造った」と話したのか理解できるでしょう?! 実は東洋の人も女媧が泥で人間を造ったと言っています。このように話せば理解しやすくなると思います。実は神はこの空間にあるすべての物質を構成する粒子を土だと見ており、実質はそうなのです。

 先ほど粒子が空間のすべてを構成でき、異なる天体がみな広々としており、非常に繁栄していると話しました。粒子がミクロであればあるほど、構成した世界はよりきれいで、より美しいのです。実はさらに大きな粒子もまたさらに広い天体範囲、あるいはさらに大きな生命を構成することができます。この星は、私たち人間から見れば非常に遠く感じるのに対して、さらに大きな生命にとっては非常に近く感じられます。まさに人間が分子と分子の間の距離を見るのと同じです。それでは、人間に見える星と星の間もある生命の身体の一部分の存在であるかもしれないのではありませんか? 言い換えれば、それがさらに大きな生命を構成することができるのではありませんか? 実は同じです。昔、巨人と小人がいたと言われています。常人がそれを認めるかどうかは別として、私は道理から言っており、ただ時代が変わっただけです。歴史がここまで至り、この時期の歴史と文化の要求に符合しなければならないので、現在の社会はこのように変わってしまったのです。人間は見ることができず、触れることのできないものを信じようとしません。信じなければ信じないほど、人間に真相を知らせなくなります。それは人間が愚かになったからです。人間が信じなくなったのも按排されたことです。人間は自分で決めたいと思っていますが、これまでに自分で決めたことは一度もなかったと、私はいつも言っています。

 人間は自分で物事を決めようとして、民主主義を取り入れようとしますが、実は人間は一度も本当に物事を決めたことはありません。なぜならば、神がこの世界を操っているからです。福の多い人、能力のある人は必ず高官につくように按排されています。福の少ない人、能力のない人は決して高官にはなれないのです。パリコミューンは君主制を覆しましたが、皆さんに教えますが、フランスの歴代の選出された大統領はみな、昔の皇帝であり、ただ別の按排に変わったにすぎないのです。ここでこの話をしたのは、つまり、すべてが神に按排されているということです。また、今日、常人社会に現れてきた党派間の争いも今日の人類の生存状態です。古代には、このようなことはなかったと皆さんも信じていると思いますが、今日に至っては、実は人類は変異した人類であり、変異した社会です。このことについてはまずこれくらいにしましょう。

 先ほど宇宙の異なる粒子は異なる大きさの生命を構成できると言いました。すべての星には生命が存在していますが、ただ人間の空間には現れないので、人間もそれを認識することができません。今日の科学が発達していないため、この空間で手探りをしているだけで、それを認識することができません。実は別の空間を開くことも簡単なことです。ミクロの空間を観察できる巨大なシステムがあれば、分子以下の粒子で構成された物体の存在形式を見ることができるのです。人間には各種の障碍があり、思想の障碍により信じられず、それを行う勇気がなく、意味のないことだと思うので、それらの真実の存在も目にすることができません。しかし、あなたが見ようとしてもしなくても、その本来の姿がたまに現れてくることがあります。ある人がふとしたきっかけで、運動中の物質が偶然に突然現れるのを目にすることがあります。これはよく起きることです。人々がみな、蜃気楼を大気の屈折だと言っていますが、それは現在の科学が解釈できない辻褄合わせであり、何の道理もありません。実は、それは別の空間の如実な体現です。先ほど話したこの宇宙の概念は、皆さん理解できましたね。そうでしょう?(拍手)

 この宇宙のすべての物質はみな、真・善・忍によって構成されています。真・善・忍は異なる次元に異なる現れがあり、異なる次元における表現形式があり、異なる次元の生命に異なる生存環境を切り開きました。人間のところまでくると、この法の現れは非常に大きくなり、非常に厖大で繁雑になり、修煉形式も多くあり、悟った理も非常に多くなりました。一人の良い人間になるのに、この空間に存在している要求はつまり、仁、義、礼、智、信、などです。これらも真・善・忍から派生してきたもので、これだけに留まらず、まだ多くあります。女性を構成する要素は愛嬌と優しさ、男性を構成する要素は剛直であるなど、すべては法から現れてきたのです。物質の生存形態と存在方式も含め、すべてが法から体現されてきたのであり、法がすべてを造り出したのです。

 次に修煉のことについて触れたいと思います。なぜその境地の基準に達するまで修煉して、やっとその境地に行くことができるのでしょうか? その次元にその次元の法があり、その境地では生命に対する要求と生命の環境に対して基準があるからです。身体に業力があり、その空間の環境に符合していなければ、そこに存在することはできません。汚い身体ではその次元の高い空間に行くことは絶対にできないのです。ですから、必ずその高い次元の境地における身体の状態に符合しなければならず、つまり業力がないということです。業力がないだけでなく、この身体の物質は非常にミクロになり、非常にきめ細かくならなければいけません。着実に修煉しない人が求めて得ようとしても得られません。修煉するしかありません。苦を嘗めて、厳しい修煉を経てやっと得るのです。

 さらにあなたの生命の一面もその境地の基準に符合しなければなりません。つまり、あなたの心、思想、あなたの生命に存在しているすべての霊性も、その境地の基準に符合しなければいけません。

 もちろん、その空間における生命の存在形態にはもう一つの基準があります。この人間のままでは、そこに行くことはできません。あなたが圓満成就する時、必ずその空間の生命の形象にならなければなりません。高ければ高いほど、生命の形象は若くて美しいのです。低くなるほど、美しさは失われます。高ければ高いほど、形象が美しくなるだけでなく、思想も純粋で清らかで美しく、存在の仕方や言葉遣い、振る舞いまで変化が起こります。その境地にいる生命が話す言葉は詩のようですが、これでもまだ一定の次元での状態にすぎません。さらに高い次元ではさらに素晴らしいのです。その境地の要求に符合していなければ絶対にそこに行くことはできません。私はいつも「修は己にありて、功は師にあり」と言っています。つまり、あなたが到達しようとしているそのような境地のことを全く知らないのに、どのようにして到達できるのでしょうか? どのように成し遂げるのでしょうか? 自分ではできないのです。私はただあなたの修煉の心を見ているだけで、ひたすら修煉していくと決意すれば、他の一面は師父が行います。決意を固めることができるかどうか、最後まで修煉を続けるかどうかが、最も肝心なことです。

 功の具体的な演化方式について、私は皆さんに説いたことがなく、このことに気を取られてほしくありません。そうすることで、執着が引き起こされにくくなり、余計な妄想に囚われることが避けられます。皆さんも知っているように、次元が高ければ高いほど思想が静まります。しかし心性を高めずに、一途に静を求めるのは間違いです。煉功の時、一途に静を求める人がいますが、どうしてもその状態になりたいと思えば、一種の執着を形成してしまいます。しかし皆さんに教えますが、小道から言えば、それは一つの方法ですが、高い次元から言えば、これは有為なのです。なぜでしょうか? 静は修煉によって徐々に執着心を取り除いてから、初めて得ることができるからです。人為的に完全に静になり、たちまちすべてを放棄するということは(もちろん特殊な情況もあります。それについては触れません)、普通はできないことです。静になることができたのは、あなたの考えがすでにそれほど純粋で清らかになったということです。いわゆる特殊な情況とは、副元神を修煉する方法を指しています。最初から人為的に入静することはできますが、それは大法の修煉方法ではありません。これは決して小さな問題ではありません。

 私は以前、自分が目的を抱いて相手を変えようとし、あるいは相手を説得しようとして話をしたとき、あなたの話がいくら理にかなっていても、相手に完全に受け入れてもらえることがなかなか難しく、人の心も打つことができない、と説いたことがあります。なぜでしょうか? 実は皆さんに教えますが、その話の中にあなたのすべての思惟があるからです。皆さんは常人の中にいて各種の七情六欲があり、ひいては多くの執着があり、話したことの中に複雑な考えがあるので、話にそれほどの力がなくなり、力が分散してしまったのです。さらに、人に何かを言おうとするとき、往々にして自分の観点に立脚し、宇宙の法に符合しているとは限りません。ですから、この点から言えば、また真理の力も欠けています。また、人に何かを話すとき、自分が傷つけられないように、自己を守ろうとするため、つまり、あなたが話をするときの目的も不純になり、このように話すと非常に軽薄になってしまうのです。しかし、もし考えが本当に清らかで静かになることができれば、あるいは執着心がますます少なくなり、雑念が少なくなったとき、自分の話に力がついたと気づくのです。無為を説いた時に、構うべきではないことに勝手に手を出さないようにと言いましたが、それはなぜでしょうか? あなたの話に力がつき、力のある話は他人を変えることができます。正しいかどうかを問わず、あなたが人を変えてしまえば、間違いを犯す可能性があります。あなたの目に見えたのは表面的なことで、過去の因縁関係はあなたには見えず、真相が分からないのです。さらに高い次元まで到達すれば、あなたの思想はますます清らかになり、あなたの考えから現れてきたもの、口にした話は非常にきれいになります。きれいであればあるほど、単一であればあるほど、より深く宇宙の理に符合するようになります。話す内容も直ちに人の心まで届き、人の思想の深いところ、その生命のさらにミクロなところにまで届くのです。なんと強い力でしょう?! ですから、入静できるのは境地の現れです。

 修煉してその次元の基準に符合して、初めてその境地に行くことができます。さもなければ、その境地に行くことはできません。これが、なぜ私がいつも修煉は人の執着心を取り除き、業を滅し、法の要求に符合し、常に多く本を読み、法をはっきり理解しなければならないと説いていることの理由です。

 以上のことを簡単にお話しました。今日は法会であり、皆さんが私に会う機会も少ないので、機会があればぜひ聞いてみたい質問も多くあるかと思います。これからの時間を利用して皆さんの質問に答ます。しかし気を付けてほしいのは、一部の人は(もちろん新しい学習者ですが)質問をするとき、偉そうな言い方をして、師父への尊敬の気持ちも欠けています。もちろん、私は師道の尊厳を言っているのではありませんが、なんといっても私は皆さんの師父であり、皆さんをあのような境地まで済度していくのです。私が皆さんに与えたものは、皆さんの生命が永遠に報いることのできないものです。ですから、弟子としてふさわしい言葉遣いを心掛けてください。

 それでは、皆さん質問を出してください。

弟子:釈迦、老子、イエスの後に如来まで修煉できた人は、どれぐらいいたのでしょうか?

師:総じて言えば非常に多かったのです。釈迦牟尼の後に多くの人が得道しましたが、みな佛教の中で修煉して圓満成就したのです。イエスの弟子には修道士として圓満成就した人もいました。もちろん、中国には道を修める方式も多くあります。修煉方法は地域に制限されないため、古代の西洋社会にも道を修める人がおり、圓満成就した人も多く、すべて宗教の中で修煉して圓満成就したわけではありません。しかし、近代になって圓満成就した人は少なくなり、現代社会では、ほぼゼロに近いのです。

弟子:『轉法輪』で、月は古代の人類によって造られたと書かれていますが、当時のその理由と目的を少し説明していただけないでしょうか?

師:皆、笑っています。質問は私が説法する目的から遥かにずれてしまったからです。あなたは知識を求めており、いろいろ妄りに考えています。考えれば考えるほど、あなたの思想は清浄でなくなります。あなたは常人の中で執着しているそれらのものを手放すどころか、私に聞き、さらに法の中に混ぜてしまいました。私はまさにこの方面において皆さんのために焦っています。修煉に心を置いてください。もちろん質問を出した以上、少し説明してあげてもいいのです。

 歴史上、今日のような科学の状態はありませんでしたが、異なる時期の人類にその時期の発展方式がありました。その時期の人類は、夜が人々に不便をもたらすと認識したので、月を造って天に置いたのです。月は夜の地球に光を与えることができます。これは修煉と何の関係もありません。あなたに説いてあげたくないというわけではありませんが、私が説いた話は何らかのことを是認してしまい、私が説いた話は法になるので、個人的に興味のあることを私に言わせないでください。

弟子:意念の速度は光速より速いのでしょうか?

師:これは間違いなくそうです。人間の意念の速度は非常に速いのです。次元が高ければ高いほど、あなたの次元の下にあるすべての空間を貫いてしまいます。この話を皆さんはしっかり聞いてください。あなたの次元が高ければ高いほど、あなたの功はあなたの下にあるあらゆる空間を通り抜けるとき、その空間の時間の制約を受けませんが、功はあなたの意念によって制御されています。この環境に生存しているので、あなたの歩く速度、車の速度、すべてのすべてはこの空間の時間の範囲内に制限されています。人間が発した意念は、人間の空間において非常に速いのです。修煉者がこの空間の制約を超越していれば、その意念は非常に速いのです。同時に、人の功と人体に備わっているすべての能力がみなあなたの思想に制御されていると説いたので、つまりあなたの意念がそこに届けば、あなたの功もすぐにそこに届くということです。これほど大きな力があるのです。高い境地まで修煉した人に鍵を掛けなければ、本当に一瞬にして天地を覆してしまいます。ですから、完全に悟りを開いておらず、この世で修煉している間、決してあなたに鍵を掛けずに修煉させてはいけません。能力の小さい場合は大丈夫です。なぜならば、この空間もこの空間の神によって管理されており、神がこの空間のすべてを制御できるので、あなたは天地を覆すことができません。しかし能力が大きくなると、それはいけません。師父もそれを止めるのです。

弟子:この宇宙でどの物質の速度が一番速いのでしょうか?

師:あなたは科学を聞いていますね。皆さんに教えますが、あなたのこの求める心を満たしてしまうと、あなたの執着を強めてしまうことになります。教えたくないのですが、この質問はすでに出されました。

 この空間、すなわち今、人間が認識している速度には、さらに強いエネルギーがあるのですが、人間はそれを発見することもできず、利用することもできません。いわゆる最大とか、最小などは、すべて人間の認識に基づいたものであり、人間の空間場と時間場の範囲内の認識です。この宇宙には人間が認識しているような大、小の概念はありません。ですから、宇宙のどの物質の速度が一番速いかということも、次元によって定められています。例えば、次元の非常に高い神の話の速度ですが、時に非常にゆっくりゆっくりと話していても、あなたの思惟の速度よりも速いのです。私がここで話したこと、先ほどのあなたの質問は執着だという話は過ぎたばかりですが、ある空間ではすでに数百年が過ぎました。これほど大きな差があります。宇宙はあまりにも厖大なので、時間場の違いが宇宙の複雑な空間を構成したのです。

 実は「時間の制約を受けないものが最も速いのです」。しかし、人間にとっては、永遠にこの言葉の内涵を本当に理解することはできません。「宇宙のどの物質の速度が一番速いのか?」というあなたの概念も人間の考えであり、人間の認識です。私たちの現在の空間も含め、この時間も絶対的なものではありません。皆さんも知っているように、私は『轉法輪』の中で、今見えた星は私たちと十五万光年離れていると説きましたが、実は私は、現在の科学と人間が認識できることを用いて説いただけで、実はそのようなことではありません。なぜでしょうか? 皆さん考えてみてください。異なる空間に異なる時間が存在しています。私たちの地球範囲内にはある時間場が存在しており、すべてがこの時間の範囲内で制限されています。人工衛星は一旦この大気圏を抜け出すと、別の時間になります。決して地球の時間と同じ時間場ではありません。また他の星を通過する時、その星の時間場になるのです。天体範囲が大きくなればなるほど、時間と速度の差異も大きくなります。

 銀河系に起きた出来事を十五万光年経ってからやっと見ることができると言いましたが、実は皆さんに教えますが、二、三年ぐらい経てば見ることができるようになるかもしれません。なぜでしょうか? 光の速度も時間場に制約されているからです。異なる時間場を通過する時、光の速度は「シャー、シャー、シャー」と速くなったり遅くなったりします。地球までやってきた時、地球の時間場に符合し、非常に遅くなります。地球にいる人類が認識した時間場をもって宇宙の時間を量ろうとしても、全く不可能です。人類の真理に対する認識、物質に対する認識、生命に対する認識、宇宙に対する概念、われわれ人間の発展も含めて、多くの物事に対する認識はみな正しくありません。

弟子:佛家の大覚者は私たちのこの宇宙の光について、いかに解釈しているのでしょうか?

師:光が見えるだけで何になるのでしょうか?! 光には多くの種類があり、異なる次元でも違い、光を放つ情況や目的も異なります。ですから、常人の考えで人類より次元の高い物事を考えないでください。修煉したければ、本を多く読み、法を多く学んでください。悟り得ないこと、知り得ないことは将来、みな法の中から見えてくるのです。皆さん考えてみてください。いかなる物体にもエネルギーがあると私は言いましたが、分子でさえエネルギーがあるのです。人々が分子にエネルギーがあると感じられないのは、人類自身も分子によって構成されているからです。そのため、感じられないのです。エネルギーのあるものであれば、光があり、エネルギーを持っています。ですから、事を針小棒大にし、何に対しても大げさにしないでください。いざ大法弟子の威徳が現れれば、それはまさに偉大で、光り輝くものなのです。

弟子:法を広めるために、師父の経文を新聞に掲載してもよろしいでしょうか? 経文の内涵が曲解されてしまうのではないかと心配もしていますが?

師:十分にあり得ます。ですから、できるだけそうしないでください。なぜでしょうか? 皆さんに教えますが、私たちの法を広める最も良い方法は、皆で集団煉功することです。私たちは縁のある人を取り残さないようにと説いているだけです。私は全人類に法を得させるために法を広めているのではないと言いました。決してこのような概念ではありません。縁のある人に法を得てもらうと私は言っています。今日ここで、皆さんにはっきり話してもいいと思いますが、私たちがいつも言っている法を広める方法は、皆さんが外で煉功することと、社会で大法の本が書店で販売されていることです。私の法身は縁のある人に本を買い求めさせ、縁のある人であれば、本を読んですぐ学びにやって来ます。また私たちが外で煉功しているので、法身はその人が煉功点を尋ねて法を得るように按排するのです。偶然が重なるようにその人をそこへ行かせ、煉功させます。あるいは、他の学習者と連絡が取れるようにします。私はこのようにこのことを按排しています。

 皆さんはもっと多くの人に大法を知ってもらうために、多くの方法を講じました。これは皆さんの心から出たものであり、私には分かっています。皆さんもよく行いましたが、みな自発的な個人としての行動なので、それが正しいかどうかについて、私は言わなかったのです。しかし、私が法の中で大法のために残した法を広める方法は、これです。つまり、外で集団煉功をし、法会を開催することと、書店で本が販売されているということです。縁のある人は本を購入し、読んで学びたくなれば自ら尋ねてくるのです。そういうことです。言うまでもなく、学習者は個人的な行動として、他の人に知ってもらうために新聞に載せたりしました。これも多くの人に法を得させることができます。私はこのようなやり方も否定しません。なぜなら、縁のある人に知ってもらえるからです。ただ、皆さんに残した最も良い法の広め方は、集団煉功と法会であるということをお話しました。

弟子:私は法を広めることが修煉と切り離せないと考えていますが、法を広めることは圓満成就と関係ないと師父はおっしゃいました。

師:法を広めることと圓満成就は、もちろん二つの概念です。しかし、法を広める人はそれを仕事として考え、いつも頑張って精力を費やしていますが、普段あまり本を読まず、煉功する時間もなく、このように行なった仕事は必然的に法からかけ離れてしまいます。つまり、あなたは修煉と仕事を結び付けなかったのです。仕事をするときに強い執着を抱いており、ぶつかった厄介なことが自分の心性と関係しているのではないかと考えません。やり方が法に符合しているかどうか、修煉者の基準に符合しているかどうか、内に向けて自分を探すことがなければ、それはただ常人の仕事で、常人が大法の仕事をしているにすぎず、少なくとも修煉者としての基準に従っていません。修煉と仕事を結び付けなければなりません。仕事の中でどんな難題にぶつかっても自分の心性を探し、「トラブルに遭ったら、自分はどうしてこうなったのか? 私が間違ったのではないか? 私の出発点に問題があったのか? あるいは他の原因なのか?」と自分を見ます。つまり、あなたはいつも煉功者の基準をもって自分に要求し、自分を量るということです。一つの考え、一つの念も緩めることなく自分を修煉者とみなすことができれば、あなたはすでに修煉の中にいるのです。そうであれば、あなたの仕事はすでに法と結びついたのではないでしょうか? 圓満成就にいたっては、あなたの修煉の度合い、圓満成就まで修煉したかどうかを見るのです。皆さん一人一人、毎日修煉していますが、圓満成就できるかどうかは圓満成就の基準に至らなければなりません。

弟子:私は毎日『轉法輪』を読んでいますが、「祝由科」「辟穀」「気を盗むこと」「気を採ること」などの内容は知る程度でいいと思います。

師:皆さんに教えますが、私はそのようなことを例として説いていますが、私が説いたのはそれだけではありません。私が説いたのは法理なのです! その背後にある内涵は数えきれず、尽きることなく、終わりもありません。この宇宙の大きさは法の大きさなのです。私はただ人間の最も一般的な行為、最も分かりやすい言葉、最も次元の低い人間の形式をもって法を説いているにすぎません。皆さんが理解できるようにするためにこのようにしています。その背後に尽きることのない内涵があることを悟ってほしいので、決して読み飛ばしてはいけません。法を読むときにすべての内容を漏れるとこなく最後まで読んでください。くれぐれもこの問題に気を付けてください。法の一貫性は皆さんの修煉に非常に有益です。法は最初から最後まで繋がっているので、飛ばして読んではいけません。

弟子:煉功者の周りの環境にあるすべての事物は、みな師父が演化してくださったのでしょうか。

師:周りの環境は演化されて出てきたのではなく、修煉の過程で周囲に起きたすべての出来事はみな、自分の先天の因縁によって引き起こされたことです。つまり、それはあなたが造った業力の報いであり、昔、行なった良いことの報いでもあり、すべてがあなたの善果と悪果です。私はあなたが修煉できるようにそれを利用したのです。私が演化したのではありません。また、あなたは関を乗り越えると同時に、確かに業も返しています。これは間違いのないことです。多くの学習者が夢の中、あるいは坐禅をしている時に見えたものもすべて演化されたものではなく、その多くが真実の体現ですが、ただ、あなたはそれほどはっきりと感じていないだけです。

弟子:師父が修煉されていた時のことを圓満成就できる弟子に教えていただけますか?

師:圓満成就したら分かるようになります。元々私が修煉していた時の情況を皆さんに教えるつもりでいました。現在の状況から見れば、それはますます不可能になりました。なぜ不可能なのでしょうか? 将来の人間に私の存在を知らせないため、人間に私の情況を残したくないからです。皆さんの場合、圓満成就さえすれば、分かるようになります。その時、あなたは言葉を尽くしても、あなたの師父がどれほど偉大なのか言い表せません!(拍手)

 私は皆さんだけでなく、すべての生命のために心を砕いており、すべての生命のため、ほぼ私のすべてを使い果たしました。もちろん、この使い果たしたとは、皆さんが理解しているような、無くなったという意味ではありません。皆さんが修煉して向上できるもの、修煉の中で得ることのできるものを、すべて法に詰め込んだと私はいつもこのように言っています。皆さんは異なる境地にいますが、誰もこの話の重みを本当に理解することができません。修煉さえすれば、何でも得られます。しかし皆さん、知っていますか? 皆さんが得たものに私のものがどれくらい溶け込んでいるでしょうか?(拍手) もちろん私は自分のこれらのことを話したくありませんが、ただ皆さんに伝えたいのは、師父である私がしているこのことを皆さんも大事にすべきだということです! 必ず着実に修煉し、この機縁を逃さないようにしてください。

弟子:いつになったら、私たちは西洋人が翻訳した大法を入手することができるでしょうか?

師:『轉法輪』はもうすぐできますよ。フランス語版はもうすぐ出版社に渡して印刷します。英語版はすでにできました。ドイツ語版はすでに書店にあり、多くの書店にあるようです。他の言語、例えばイタリア語版、スペイン語版は今翻訳中だそうです。ロシア語版はすでにできました。これが西洋の各国語版の状況です。他の言語にも訳されている最中です。このことは私としては確かにあせっています。しかし往々にして、各方面の機縁がまだ熟しておらず、その上、皆さんが各方面からの妨害を認識できなかったため、ずっと長引いています。

弟子:心性の修煉が最も大事であれば、どうして師父は本の中で修煉の次元や神通について言及されたのでしょうか?

師:多くの質問は新しい学習者が出したものですが、本を読んでから質問したほうがいいでしょう! 修煉は佛の能力と切っても切れない関係にあります。ですから私はこのようなことを説いた時、ただ道理から、法理から概括的に説いているだけであり、あなたに分からせ、例を挙げて修煉者に他のことも分からせます。このような目的です。これらのことを求めてはいけないと言いながらも、修煉の次元や神通を説いたということではありません。これらのことは佛法修煉と切っても切れない関係にあります。皆さんが求めていることと、法理を知っておくべきこととは完全に違います。それは佛法のもう一面の体現です。佛法神通の殊勝さが見えないのは、あなたが常人の観念を抱きながら本を読んでいるからです。自分の考えに合ったものなら読みますが、あなたの常人としての考えで理解できないものは読まず、ひいては受け入れません。しかし、これがまさにあなたが向上できない原因なのです。

弟子:どうして同性愛が道徳観念にかなっていないのでしょうか?

師:皆さん考えてみてください。同性愛は人間としての行為なのでしょうか? 神が男性と女性を造りましたが、その目的は何でしょうか? 子孫を残すためです。男性と男性、女性と女性なら、少し考えればすぐにそれが間違っているかどうか分かります。小さい事であれば、それは間違いだと言えますが、大事なことを間違えたら、それは人間の道徳規範を失ったことになり、人間でいる資格がなくなります。

 今日の社会はなぜこのようになったのでしょうか? 皆さんに教えますが、それは人間を制約する正法がないから引き起こされたことです。大法は他でもなく、このような最も乱れた環境の中で、すべての宗教が人を済度できない時、すべての神も見放した状態の中で伝えるのです。なぜなら、法の力が大きいからです。最も良い時期なら、これほど大きな法を伝える必要もなく、最も良くない時期こそ、法の威力を現わすことができます。しかしまた別の原因もあります。

弟子:どうして同性愛者は悪いと思われているのでしょうか?

師:皆さんに教えますが、私が今日この法を伝えなければ、神にまず消滅されるのは同性愛者です。私が同性愛者を消滅するのではなく、神がするのです。同性愛者はある根拠を引っ張り出して、古代ギリシャの文化に同性愛がすでに存在したと言っています。確かにそうです。古代ギリシャの文化には類似した現象がありました。では皆さん、古代ギリシャの文化がなぜ消えたのか知っていますか? 古代ギリシャ人がなぜいなくなったのでしょうか? その程度まで腐敗堕落したため消滅されたのです。

 神が人間を造った時、人間に人間としての行動規範、生活様式を定めたので、人間がこの範囲から逸脱すれば、人間とみなされなくなります。しかし、同性愛者が人間の姿かたちをしているので、神はその存在を認めず、彼らを消滅させるのです。なぜ世界に戦争、疫病、天災、人災が起こるのでしょうか? それは人間に業力があり、人間の業力を滅するためにあるのです。将来いくら素晴らしい歴史時期であっても、地球には戦争、疫病、天災、人災が存在しますが、それは人間の業力を滅する方法の一つです。罪を犯した人なら、肉体の死や苦痛によって業力が滅され、輪廻転生して業力はなくなりますが、その生命は本当になくなるということではなく、再び輪廻転生します。しかし、造った業があまりに大きい人の場合、生命の本質まで及び、すべてが消滅されるのです。同性愛者は神が人類に与えた規範に自ら反しているだけでなく、人類社会の道徳規範をも破壊していますが、特に児童に与える印象が将来の人類社会を魔物の世界にしてしまいます。つまりこの問題です。しかし、その消滅はすぐになくなるのではなく、すべての次元において、私たちにとって非常に速いスピードで消滅されていますが、その時間場にいる人間にとっては極めて長いのです。繰り返し、繰り返し、極めて苦痛な状態の下で消滅されます。それは非常に恐ろしいことです。人間は明るく、正々堂々と人間らしく生きていくべきです。自分の魔性を放任し、やりたい放題ではいけません。

弟子:私は正果を得たいのですが、羅漢果位を目標としていますので、法を広めることも含めて積極的に私と縁のない人を助けたりはしません。これは間違っているでしょうか?

師:間違っています。これはあなたの表面にある人間としての考えです。皆さんは知っているでしょうか? 一人一人がどこまで修煉できるのか、どれぐらいの忍耐力があるのか、どれぐらいの徳があるのか、どれぐらいの物質的な基礎が備わっているのか、私はすべて皆さんのために非常によく按排しました。自分で自分の修煉の道を按排しようとすれば、それは成り立たないことで、しかも誰にも認められないのです。なぜ、羅漢果位を目標として設定したのでしょうか? あなたの法に対する理解は今この程度のものであり、あなたに多くの取り除きたくない執着があります。それもあなたの法に対する理解がこの程度のものだと言うしかありませんが、あなたはこのように認識しています。将来法理に対する理解が高まり、大法の本を読む回数が多くなれば、きっと考えが変わると思います。その時、今日の質問を出すべきではなかったと思い、赤面してしまうに違いありません。今はそれがあなたの現在の基礎を表しているとしか教えられないので、私もあなたを咎めません。しかし、あなたのやり方は間違っています。自分を緩めてしまうと、放棄したくない執着心はあなたに精進させないようにします。

弟子:私は入門して間もない頃、とても熱心で精進していましたが、この前、大法を突然疑い始めるようになり、さらに何度も間違いを起こし、関を乗り越えられなくなりました。これは思想業力あるいは魔の妨害なのでしょうか?

師:私はなぜ皆さんに返本帰真を説いたのでしょうか? 帰真の目的は何でしょうか? つまり本当のあなた自身に帰るということです。人には多くの執着心、各種の観念、七情六欲がありますが、すべての考えはあなたの頭に存在しているだけで、このすべてはあなたではないのです。私は門をすべて開いたと言いましたが、ただ皆さんの心、人の心、修煉できるかどうか、返本帰真したいという考えをまだ持っているかどうかを見ます。ですから、皆さんに教えますが、皆さんの思想を妨害しているすべてのものは、あなたではないかもしれません。しかし、常人の利益を前にしてそれを放棄できず、あるいはその考えが自分の考えであるかどうかを判断できず、良くない考えも自分だとみなしてしまう人には、私たちは絶対にもう関わりません。なぜでしょうか? その人が良くない考えを自分のものとしてしまった以上、われわれのすべてをその良くない考えに与えるわけにはいかないからです。

弟子:『轉法輪』の中で、大覚者は自分の特性に基づいて宇宙を造ったと書かれています。

師:皆さんに教えますが、多くの人がこの内容に気づいたのです。それはすべての宇宙を包括する厖大な天体にある異なる境地の宇宙に起きたことを指しています。この天体はあまりに大きいのですが、私が皆さんに説こうとする天体全体のことではありません。大覚者は異なる次元の天体で宇宙大法の異なる法理を悟りましたが、同じ次元の大覚者がそれぞれ悟った理も同じではありません。厖大な天体に、大きさの違う宇宙に腐敗堕落が出現した時、悟りが高く、正しく悟り得た大覚者がその層の宇宙を建て直すのです。ここでは、無数の異なる次元の宇宙を包括する比類なき厖大な天体のことを指しているのではありません。

弟子:「時間との対話」という経文の中で言及された神について、神の概念、佛、道との区別、そして原始の神との関係をどう理解すべきでしょうか?

師:宇宙にいる常人を超えた能力を持つ者はみな神であり、空気に満ち溢れているミクロ的な厖大な生命は数え切れないのですが、みな無形の神です。このような概念です。神には異なる境地があり、また異なる種類があります。佛は神ではありませんか? 道は神ではありませんか? 総称してみな神です。ただそれぞれ自分の修煉の特徴と外形があり、独自のものが形成されたので、各々を道と呼び、佛と呼び、神と呼びました。宇宙にある一切の一切はみな、思想と生命を持っていますが、それが神ではないと言えますか? いかなる空間の時間も、みなその空間にあるすべての物質の変化を厳密に制約していますが、それが神ではないと言えますか? 自分の管轄範囲にいるすべての生命の考えを知ることができ、何かを話そうと思えば話すこともでき、人間の形になろうと思えばなることもできます。それが神ではないと言えますか? 人々は時間をただ一つの概念として考えていますが、日が出て沈んでいくので、人々は時計にいくつかの点をつけ、いくつかの数字を置き、それが時間になりました。日が出ることと沈むことも含めて、これは時間の常人社会での表現形式です。皆さんに教えますが、日の出と日の入り、地球が太陽を巡って回転していることもみな、この空間の時間が制約し按排したので、少しのずれもありません。

弟子:私は圓満成就を志していますが、先生が法を伝えることを止められても、先生の法身はまだ守ってくださるのでしょうか?

師:実は私はすでに法を伝えておらず、私が系統的に法を伝える時期はすでに過ぎました。今私はただ法会に参加し、ついでに皆さんの質問に答えているだけです。輔導站の責任者がいつも私に次元の高いこと、多くのことを話してもらいたいと思っています。以前は私が法を伝えることが最も重要だったのですが、今は皆さんの修煉と向上が最も重要なので、法身が守ってくれないということがあり得ますか? 私の法身が手放すときは、皆さんがすでに圓満成就したのです。

弟子:法を得たばかりの新しい学習者は、一九九八年以前に先生が北米で説法なさった時のビデオと録音テープを見たり聞いたりしたいと思っていますが、よろしいでしょうか?

師:私が初めてアメリカで説法した時の内容はすでに本にまとめてあるので、本を読んでください。それはあなたの法に対する認識に非常に役立ちます。ビデオを見ることはかえって、あなたにとって的外れになるかもしれません。なぜなら、その時私は法を聞いている学習者の具体的な情況に合わせて説法をしたからです。本は普遍性があり、整理されたものです。しかも、私が説法した時の最大の特徴は、皆さんがビデオを見てすでに気づいたと思います。法を説いているうちに、話題が急に変わり、別のことを説き始めました。皆さんにはこのように感じるかもしれません。なぜでしょうか? 説いているうちに、学習者がみな、分かったと私が気づいたからです。私の話がまだ終わっていないうちにすでに分かったからです。私はそのことについて、それ以上説くことはせず、他のことを説き始めます。ビデオではこのようなことがよくあるので、あなたにとってビデオを見ることは、必ずしも本を読むことより良いとは限りません。かえって本を読む方があなたにとっていいのです。この意味です。本とビデオが同時に存在すれば妨害が生じるので、各地での説法をまとめた本が出版されると、すべての録音と録画は必ず処分しなければなりません。これは大法を守るためです。放下できないのは人間の情なのです。

弟子:妻と私は大法を修煉しています。数か月前に、私たち二人は相次いで非常に綺麗な大きな鳥を夢で見ました。その鳥は私の身体に入って消えましたが、妻はその鳥の鳴き声が聞こえました。これは何を意味しているのでしょうか?

師:ただの鳥です。皆さんが生々世々の輪廻転生の中で、非常に高い次元から来た神であっても、今生は人間、来世は動物に生まれ変わることがあり、人類社会ではこのようです。修煉してから、初めて見たものは恐らく皆さんの原形、あるいは最初にいたところの映像であるかもしれません。それは人間の形だったり、動物だったり、あるいはあれこれだったりします。天上の鳥も神です。

弟子:修煉者は栄養補助食品を食べてもいいですか?

師:あなたは本を読んでいません。きっと読んでいません。皆さん考えてみてください。修煉者は身体に病気があれば功が出ることはなく、つまり、きれいではない身体では修煉できないのです。ですから、修煉の時、あなたの身体を絶対に純潔できれいになるまで浄化してあげてから、やっと功が出ます。ですから、私たちは病気治療をしないと私は言っています。しかし、私は真に修煉する人のために身体を浄化してあげるので、そのような身体には病がありません。みな佛の境地の身体になりたがっていますが、栄養補助食品を食べてそのような身体になることができますか? 絶対無理です。それでは、何のためにそれを食べるのですか? それは美味しいと味見するほどのものでもありません。修煉の過程で、私たちはあなたの身体を浄化します。ますます正常で最も良い状態を目指しており、これは薬を飲んでもできないことです。それでもまだ薬を飲めば、修煉に対して不安があり、自分を修煉者とみなしていません。このような道理ではありませんか? 自分を修煉者とみなさなければ、私たちはどうやってあなたを修煉者として扱うのでしょうか? この道理ではありませんか? 漢方薬にしても西洋の薬にしても、みな薬であり、これは間違いのないことです。あなたはただ健康な身体がほしいのですが、私たちの修煉はこのことを遥かに超えています。このような関係ですが、あなたはどのようにしますか?

弟子:私たちは中国の弟子ですが、まだ五人が他の原因で来られませんでした。彼らが来られなかった原因は魔の妨害が大きかったのか、それとも師父の按排によるものでしょうか?

師:あなたたち五人も私は来てほしくありません。なぜでしょうか? 先ほど話したように、以前は私が法を伝えることが最も重要だったのですが、現在は皆さんの修煉と向上が最も重要なことです。修煉に専念して、着実に修煉していくことが最も重要なのです。人心が働き、私を探したり、法を聞きたがったり、あちこちに私を追いかけたりすることは、あなたの修煉に対して何のメリットもありません。シンガポールで法会を開く時、多くの国内の人が行こうとしました。それで学習者に何のメリットもないので、あちこちに行かないように各地の輔導站に知らせてください、と私は研究会に言いました。本来なら法身がこの期間に順序よく修煉するように按排したのに、皆さんはそれを乱してしまいました。この期間の修煉によって一部の執着心を取り除くことができるかもしれませんが、向上すべきところで撹乱されました。つまりこの原因です。どうしてもやりたいのにうまくいかなかったことに対する執着を、すべて魔の妨害としないでください。

弟子:夫は煉功していませんが、『轉法輪』を一通り読んで、先生の説法のビデオを見ただけですが、彼は天目が開き、さらに遠隔透視功能があります。

師:これは彼の縁、また根基が良いことから引き起こされた現象で、見たらすぐ開いたのです。彼が大法を学ぶかどうか、修煉するかどうかに至っては、この複雑な社会の中で、すべての人はみな、非常に複雑になりました。ここにいる皆さんは歴史上、まだ人間社会に来ていなかった時、心の奥に今日法を得る種が植え付けられました。人類社会の中で私は幾度となく皆さんを探し出し、印を授けたことがあり、これらのものは強烈に作用しています。しかし、これらのものも皆さんの常人の執着を弱め、「私はずっと待っていた、これを得るために来たのだ」という当初法に出会った時のような気持ちを引き出すことができません。多くの人はすでにこの感覚を失ったので、修煉しているようで実は修煉しておらず、あまり精進しなくなりました。縁があってすでに法を得たのに、今度はまたさまざまな執着を放下できなくなりました。各種の情況がありますが、縁が尽きるとすべては終わってしまいます。

弟子:師父は卍符について説かれた時、「如来より倍ぐらい高いのは、二つ持っています」とおっしゃいましたが、如来より倍ぐらい高いというのは功柱の高さを指しているのでしょうか?

師:それは心性と威徳を指していますが、功はただ一種の現れにすぎません。功柱を指してもいいのですが、必ず圓満成就した後の功柱でなければなりません。つまり圓満成就した後、あなたの功柱は如来のものより倍高いということです。修煉過程での功柱ではなく、それは未定のものであり、まだあなたの他の部分を圓満成就させておらず、ただエネルギーの存在形式の一種にすぎません。しかし、ある意味ではそれはあなたの修煉過程での次元と心性をも表しています。

弟子:シンガポール法会の時、弟子の拍手に対して師父は両手で合掌なさいましたが、以前説法なさった時、いつも片手で挨拶されていましたが、中に何か深い意味があるのでしょうか?

師:私は弟子に対して片手を使います。ただ、皆さんの純粋で清らかな心と絶えず精進している状態を見て、本当に嬉しく思うとき、両手を使います。通常、師父は弟子に対して片手を使います。

弟子:聞いた話によると、『轉法輪』を暗記できれば、主元神が永遠に大法を覚えているので、圓満成就するか否かはどちらでも良いと聞いたのですが。

師:法を覚えるだけで圓満成就したくない人がいるでしょうか? 何のために本を暗記するのでしょうか? 圓満成就のためではありませんか? 『轉法輪』を暗記できれば、向上には役立ちます。なぜならば、あなたの身体のミクロの部分とあなたの人間としての最も表面的な部分がみな、暗記しているからです。しかし、どんなに暗記しても、どんなに流暢に暗記した人であっても、ある時期になるとまた暗記できなくなることが現れてきます。なぜでしょうか? あなたの主たる部分、大法を暗記した部分が基準に達した後、あなたから隔離されたからです。急にあなたは「あれ、どうして暗記できなくなったのか?」と感じます。すでに基準に達した部分は隔離されたからです。人間の表面の部分はまた漏れなく暗記できなくなり、忘れてしまいます。多く忘れたり、少し忘れたりする人がいますが、このような情況が現れてきます。

 次のような状態のある人も少なくありません。すなわち、耳がよく聞こえたり、天目がよく見えたりする時期があるということです。いつはっきり見えるのでしょうか? いつよく見えるのでしょうか? この段階で修煉が最も良くできた時です。まだ隔離されておらず、もうすぐ基準に達しようとする時、はっきり見えます。耳もよく聞こえ、身体も敏感になります。一旦隔離されると、彼はまた「私は落ちてしまった? どうしてすべてが悪くなったのか?」とだめになったことに気づきます。どうしてすべて悪くなったのでしょうか? 落ちたのではなく、修煉してでき上がったその部分はすでに隔離され、残ったのはまだできていない部分だからです。引き続き修煉しなければなりません。ですから、これは段階的に現れる敏感な感覚であり、このような状態です。この情況は大法を修煉する場合にだけみられます。

弟子:次元が高ければ高いほど、睡眠時間が少なくなるのでしょうか?

師:それは違います。このような情況はあなたの思想の粒子の変化と向上に関係していますが、段階性のあるものです。先ほど説いた問題もこの中に含まれています。修煉して良くできた部分は隔離されると、あなたの表面は正常になります。圓満成就までずっとこのような状態が続きます。これにより、常人と同じように生活することができます。しかし、人間としての一面はますます弱まり、その上、自分に対して厳しく要求すれば、常人の中での現れはますます良くなるかもしれません。こういうことです。

弟子:時間が迫ってきているのに、結跏趺坐がどうしてもできず、どうすればいいでしょうか?

師:焦らないでください。時間が足りないと言っていませんし、私は時間がないと説いたこともありません。早く修煉してほしいので、あなたはひたすら修煉すればいいのです。しかし、自分に厳しく要求すべきだということを知らなければならず、このようにすればいいのです。いずれにせよ、絶対に足が組めないのは本当に珍しいのです。一部の元神が天上では人間の形象ではなく、他の結跏趺坐をしない神の形象をしている場合、この要素が存在する可能性もあります。しかし、あなたに人身、肉体があるので、極めて特殊な情況以外、みな結跏趺坐できると思います。笑い話ですが、在席の皆さんの中に確かに修煉して良くできている人がいますが、あなたたちが結跏趺坐できなければ、天上の菩薩たちは口を押えて「あの修煉者を見てごらん、まだ結跏趺坐ができない」とあなたを笑っています。

弟子:師父、執着の概念についてご教示ください。

師:人々に宇宙の真相が見えない原因は何でしょうか? なぜこの空間は迷いなのでしょうか? 皆さんに教えますが、常人として常人社会の空間で見えるもの、触れるもの、常人社会から学んだ知識がみな、あなたを局限し、封じています。この空間に対する知識、この空間の中の一切に対する認識がますますはっきりとして、ますます分かるようになったと感じる時、あなたはますます自分を封じ込めているのです。皆さんが常人のこの空間で認識した真理だと思ったものは、実は恐らく間違っており、逆になっています。ですから、常人社会で認識したものを放棄しない限り、宇宙の真相は見えないのです。特に、人々が生存のため、自分を保護するため、自分の利益をより多く得るため、放下できないものをみな、私は執着と呼んでいます。これらの執着はあたかも強大な錠のようにあなたを閉じ込めています。あなたは前進の道のりにおいて、すべての錠を開けなければならず、開けなければ、それはあなたを閉じ込め、迷わせ、あなたは真相を見ることができません。しかも、返本帰真に向かう道のりにおいて、これらの錠を開けなければ、あなたは行き詰まってしまいます。これはすなわち関なのです。執着しているすべては、すなわちあなたの障碍であり、修煉の中で遭ったすべての関は、実はあなた自身の難でもあります。私がそれを利用する目的は、あなたの執着の錠を開け、真相が見えるように、あなたの思想が昇華できるようにすることです。

弟子:執着をすべて放棄したということは、どのように理解すればいいのでしょうか?

師:つまり、常人の空間にあって放下できない各種の心を放下することです。なぜならば、今日の修煉方式は今までの修煉方式とは違うからです。大勢の人が学びに来ると私には分かっています。そこで、ある種の社会形式が形成され、将来学びに来る人はさらに多くなります。もし修煉者の集団という社会形式が形成されたら、社会に大きな影響を与えます。人がみな、功能が開かれている状態で修煉し、神通力を駆使すれば、社会形式全体に変化が生じ、人間の社会ではなくなり、神の社会のようになってしまいます。これではいけません。なぜならば、人類社会はこのようであり、私たちはこの修煉環境を利用してその中で修煉しているからです。私たちはこの環境を破壊しないだけでなく、修煉する際、この環境に符合しなければなりません。この環境に符合しなければ、あなたは修煉できないからです。ですから、今日、私たちが採った修煉形式に関しても同様です。現在、一億以上の人が大法を修煉していますが、皆が出家し、修道士や和尚になるようではいけません。将来さらに多くの人が学びに来ます。その社会はどうなるのでしょうか? 皆が修煉しに来れば、誰があなたを養いますか。これではいけません。ですから、できるだけ常人社会に符合すべきです。私たちは常人社会の形式を利用して修煉しているので、この環境に符合しなければなりません。

 皆さんには仕事があり、みな環境があり、家庭がある人もいれば、多くの常人社会の親戚もいて、この方面のすべては私たちが常人社会の形式に符合できることの現れです。同時に、それらはまた私たちに修煉の良い機会を作り出し、修煉の環境を提供しています。なぜなら、皆さんは他でもなく、常人の中で修煉しているからです。常人社会で修煉する以上、物質面での接触、物質の所有と言ってもいいのですが、この点においてもできるだけ常人社会の状態に符合すべきです。しかし、他の人と異なるのは、皆さんは修煉者であり、心は物質に執着しないということです。多くのお金があっても、家庭があっても、財産があっても、いろいろあって構いません。ただし、それらの心を放下しなければならず、これがすなわち皆さんの修煉の方式です。

 ここで言うすべてを放下するとは、物質的なものの放下に限られません。逆に、もし物質上のものをすべて放下しても、心の中で放下できず、まだ未練があり、割り切れず、時々思い出し、場合によっては修煉に影響してしまえば、それは放下とは言えず、無理強いして捨てたということです。ですから、物質の表面上のものを淡泊に見るのは形式にすぎません。真に修煉して向上できる原因は、人の心に変化が生じることです。心が基準に達し、人の思想境地が基準に達して、初めて修煉によって向上したと言えます。私たちは物質上のものを淡々と捉え、あってもなくても構いません。肝心なのはあなたの心が放下され、向上できるかどうかであり、これが極めて重要なのです。さらに、私たちの修煉形式全体は、常人の中で修煉するように按排したので、どのようにあなたに精進させながら、功が落ちないようにするかなど、各方面での按排はみな、今日のこのような修煉形式に符合しています。ですから、私が法を伝え始めた当時、神たちはみなこれを「高徳大法」と呼び、非常に良いものだと思っていました。

弟子:大法を広めるやり方は、ヨーロッパ人に合わせる必要があるでしょうか?

師:修煉者としてこの法を得た後、どうやって法を広め、もっと多くの人に学んでもらうかという願いは、とても素晴らしいものです。ヨーロッパでも、東洋でも、どれだけ広めても、縁のない人はなかなか学びに来ません。それでは、縁のある人とはどういう人でしょうか? 縁のことについて私はすでに説いたことがあります。どのように縁のある人を探し出すのでしょうか? 新聞に掲載して縁のある人を探しても無理です。しかし、皆さんに分かってほしいのは、多分、皆さん自身も心の中で感じているかもしれませんが、あなたが「法輪功」の三文字や、『轉法輪』の三文字を言っただけで、一瞬何かが身体を貫いたと感じ、あるいは興奮して、すぐに学ぼうとする人がいます。そういった人は、おそらく縁のある人です。いくら話しても心が動かない人は、おそらく縁のない人でしょう。

 法をどのように広めるかについてですが、最も良い方法は学習者が公共の場で煉功し、縁のある人が尋ねて来るようにすることです。また大法の本をさまざまな民族や国の書店に並べ、人の目に触れるようにすることです。私には無数の法身があり、誰が縁のある人か、誰が法を得るべき人か、法身は一目で分かります。もし、書店に大法の本があり、公園で煉功している学習者がいれば、法身は縁のある人を見つけ、法と出会えるようにその人を導きます。もし、このような環境がなければ難しくなります。さまざまな方法を使い、その人が本を見つけて読めば、縁のある人は良いと感じるでしょう。あちこち探して公園で煉功する人を見つけることになります。私が法を伝えてから、今まで多くの人がこのようにして法を得ました。学習者の説明を聞いて、とても良いと思って家族を誘った人も多くいました。本人がそれを良いと思わなければ、家族を騙すようなことはしません。自分がそれを良いと思っているからこそ、家族を学ばせたのです。その家族も良いと思って、さらに他の友人を誘って学ばせました。自分自身の体験を通じて、学習者が自分の体験を通じて感じたことを語れば、相手に感動を与えます。自分の親族や友人に嘘をつくはずはないので、友人もそれを信じて学び、また同じ体験をすることができます。これが大法を広める方式です。

 しかし、一部の人は学習者が新聞や雑誌に掲載した文章を読んで法を得ました。このように法を得ることも、昨日お話ししたとおり、私は反対しません。しかし、そこでどんな問題が起きるのでしょうか? つまり上士も来れば下士も来ます。来た人にそれぞれ異なる目的、さまざまな心があるので、しばらく煉功すると止めてしまう人がいます。このような人は恐らく下士です。またはこの人は法を得たくないのかもしれず、あるいは法を得るべきでないのかもしれません。往々にしてこのようです。学習者が自分で新聞に文章を出したり、情報を載せたりすることはいいことです。私も反対しません。なんといってもこれで縁のある人に来てもらえるからです。上士も新聞を見て来ます。こうして何らかの効果を発揮することができるのです。しかし、主なやり方は二通りあります。一つは、書店に本があり、煉功点もあって、法身が彼を連れていくのです。もう一つは、法会を通じてあるいは学習者が自分の体験を家族に語ることです。主にこの二つの方式で法を得に来た人が比較的多く、質も高いのです。他の方法を採るにあたって、東洋人にしても西洋人にしても、主なやり方はこの二つだと思います。初期のころ、多くの地域の人はまだ法輪功に対する認識がないので、他の人に紹介するとき、新聞や雑誌などに文章を書いたりしましたが、もちろんこれも法を広めています。これは確かなことです。

弟子:私は白人です。あなたが試練に遭うとき、その試練を受けるのか、それともそれを素通りさせるのでしょうか?

師:「あなたが……」と言っていますが、つまり私のことを指しています。そうでしょう? 皆さんに教えますが、これはとてもいい質問です。このことについて皆さんにはっきり説明する時期も来たと思います。

 皆さんに教えますが、今日いくら多くの人が大法を修煉していても、私にいくら多くの学習者、弟子がいても、みな修煉者であり、そうでない人は一人もいません。ですから、皆さんは修煉しているのです。修煉が良くできているかどうか、精進しているかどうか、次元が高いかどうかに関して、みな自分に厳しく要求して修煉し、自分を修煉者とみなさなければなりません。しかし、私は修煉しに来たのではありません。このことを皆さんははっきり認識していなければなりません。私には私自身の難はなく、皆さんのように修煉しなければならない要素もありません。皆さんに教えますが、私が皆さんを弟子として導いているため、すなわち私は皆さんを済度しているので、このことから見れば、私は皆さんと違います。皆さんはぶつかった一切の厄介なことを修煉として扱わなければならず、なぜならば、それは必ず修煉だからです。もし、私のところに厄介なことが現れたら、それは法に対する妨害、つまり法に対する破壊です。なぜこのように見るのでしょうか? この宇宙は先天的に存在するもので、私がこのことを行う目的は法を正すためです。宇宙の衆生がすでに法から逸脱したので、法を正さなければなりません。私はよく皆さんに言っていますが、これは万年に一度もめぐり会えない機会であり、天地開闢以来かつてなかったことです。人間の世で宇宙全体の大法を伝えており、これまで神々も知らなかった法なのです。

 長い歴史の中で、生命はますます不純になり、すべてが変異しているので、このままでいくと、真・善・忍の最も基点まで変異してしまうことになり、これは非常に恐ろしいことです。しかし私は宇宙の生命を大切にしており、できるだけ原始生命を保持し、壊滅されないようにしたいと思っています。私にこの念が生じたので、やって来ました。(拍手) 来た以上、私は最も原始で最も素晴らしく、当初よりさらに完璧な一切を持った形式で現れたのです。皆さんが知っているように、法輪は回転していますが、皆さんが見ているその法輪は、ただ法輪の表面形式にすぎず、その法の一面は皆さんには見えません。法輪は絶えず回転し、自動的に機制を修復し、すべてを最も原始で最高の状態にまで戻しています。すべての物質、すべての生命はみなこのようにミクロから表面まで回転しており、運動しています。私はこのすべてを作り出し、回復させ、しかも絶えず圓容させています。私には修煉の問題がありません。私がこのことを行う目的は、宇宙の生命が不純になった後、形成された邪悪な勢力がもたらした障碍を解決するところにあり、同時に常人社会の衆生自身の造った業力が私にもたらした困難も解決しなければなりません。私はいつも次のように言っています。イエスがなぜ人間に十字架に磔にされたのか、なぜ釈迦牟尼が涅槃しなければならなかったのか、老子がなぜ『五千言』を書いてすぐ去ってしまったのか、私には分かります。一人の人間がこの世に来たとして、生々世々に輪廻転生し、すでに幾生、幾世になったかも分からなくなりました。しかし、各生、各世で他人に多くの借りを作り、多くの良くないことをしました。一部の人は異なる次元に由来し、地球に転生して来ましたが、一歩一歩下りて来る時にみな、誤ったことをしました。つまり、彼らは異なる次元の高い空間に留まったことがあります。どうしてその空間にいられなくなったのでしょうか? その空間でまた良くないことをしたため、再び落ちてきたのです。また良くないことをしては落ちてきます。天上でそれらの良くないことをした借りの相手は、神なのです。

 人間が天上に帰ろうとしても、天上の神はそれを許しません! 教えてくれる師父がいなければ、見守ってくれる師父がいなければ、いくら能力があっても永遠に元に戻ることはできません。地球に来た以上、本当に人を済度する師父が見守ってくれない限り、永遠に戻ることはできません。なぜならば、あなたはこの世で造った業を償うことができても、天上で造った業を償うことはできないからです。イエスは人を済度しようとして、このことに構わず大いなる慈悲を発したので、人身に縛られている解けない業力の結び目を解かなければなりませんでした。しかし、この宇宙には失わなければ得られず、得ようとすれば失わなければならない、という理があります。借りがあれば返さなければならず、これは永遠に変わらない絶対的な理なのです。その人を解脱させれば、その人の借りは誰が返すのでしょうか? 自ずとすべての借りはイエスのところに降りかかりました。彼らの借りを代わりに解決してあげたので、彼らの業を肩代わりしなければなりません。解決できないすべて、借りたすべて、済度された人が全く解脱できないものはみな、イエスの身に降りかかったのです。なぜならば、彼はこの世にいるからです。異なるどの次元にも業があります。つまり、この世のものだけではありません。結局どうなったのでしょうか? イエスが済度した人が多ければ多いほど、身に降りかかったものがますます多くなり、全く解脱できなくなりました。彼にこれらのことを片付ける精神的余力もありませんでした。最終的にイエスは人を済度しましたが、自分の人身もそこから解脱できなくなりました。そこで、イエスはこの身体を捨てることによって、代わりに借りと業を返すしかありませんでした。多くの生命の業力、大きな恨みはみなイエスのところに降りかかってきました。「それでは、私が信徒たちの代わりに返しましょう」。それでイエスは十字架に磔にされ、激しい苦痛の中で死にました。すべての借りはイエスの肉体に降りかかったので、肉体が死亡すると、すべてが償われたのです。この身体がなくなると、イエスも解脱しました。これがなぜイエスが十字架に磔にされなければならず、なぜ「イエスは人間の代わりに受難した」と言われているかの理由で、まさにこれが原因です。

 多くの人がこの法を学びに来ており、将来さらに多くなると皆さんも分かっています。修煉しようとすると、これらのことはみな師父が行わなければなりません。しかし、私は彼らと違います。なぜならば、イエスにしても、釈迦牟尼にしても、彼らはなんといっても小さな天体範囲にいる覚者です。私は宇宙の中にいないので、異なる次元、異なる天体と宇宙の中にいる異なる生命のことを解決できます。人を済度することは私の本当の目的ではないと言いましたが、人間はその中に含まれている一つの次元の生命であり、私が救い済度しようとする一層の生命です。実際のところ、私には難がなく、修煉ということもありません。私がぶつかったトラブルは、めったに常人のところに現れませんが、この世に現れたものもあります。その多くは皆さんに分かりません。私がこのことから解脱することができるのは、私がその中にいないからです。私には彼らのように、解脱できなくなることはありません。私は解脱できますが、難度は非常に大きく、いかなる生命にも想像できないことです。私は最大限に私のすべてを放棄できるので、この一切を解決できるのです。(拍手)

 先ほどこのことに触れましたが、ついでにもう少し強調して言っておきます。私の周りにはいつも一部の学習者がいますが、各地にも責任者や輔導站の世話人あるいは他の責任者がいます。これらの責任者に分かってもらいたいのは、皆さんが遭ったすべての出来事は関を乗り越えることですが、師父を代表することはできないのです。いかなることに関しても、私がこのことに参与したので、皆さんは私の角度から問題を考えなければなりません。これは今まで皆さんに軽視されていたことです。私に厄介なことをもたらしたら、それはこの法に対する破壊です。ですから、皆さんの関を乗り越えることと全く違います。これは決して師父が修煉しており、あるいは師父が関を乗り越えるということではなく、それは本当に法と宇宙に対する破壊なので、同等に扱ってはいけません。このことについてはっきり認識しておかなければなりません。私は問題を処理するとき、それを本当の魔として対することができますが、皆さんは決してしてはいけません! 皆さんがぶつかったいかなる出来事も皆さんの修煉と直接関係しています。ですから、それを修煉とみなし、自分の原因を探さなければなりません。これは明らかに異なるものです。

弟子:ヨーロッパ人は非常に入静しにくいようですが、これはなぜでしょうか?

師:実は東洋人とヨーロッパ人は同じです。常人社会で修煉する場合、本当に入静できるようになれば、その人はすでに高い次元まで達しているのです。なぜなら、常人社会には仕事や、常人のやらなければならないこと、いろいろなことがあるからです。坐禅してあなたが何も考えたくなくても、事は自らあなたの思想の中で働きかけており、思わず考えてしまうので、入静できないのです。私たちは修煉の中で絶えず向上し、執着心を取り除いています。執着心が少なくなればなるほど、自然にますます心が静かに、静かになります。これは次元の現れです。はじめから入静しようとしていますが、それは現実的ではありません。いかなる方法を採ってもできないのです。特殊な情況、人間としての一面が極めて弱く、しかも他の一面が非常に強く、半分分かって半分分からない状態で、このような極めて特殊な人であれば、ある程度入静できます。このような人に主として働いているのは人間ではなく、神の面です。このような人以外、いかなる人もはじめから入静できません。ですから、人種とも関係なく、ヨーロッパ人と東洋人は同じです。

 入静できなくても焦らないでください。煉功の時、心地よくなり身体がリラックスし、できるだけあれこれ考えないように抑制すればいいのです。どうしても仕方なく、まだあれこれと思い浮かんでくるのであれば、そのままにさせればいいのです。このあれこれ思い浮かぶ考えを他人とみなせばいいのです。あなたは「考えなさい、私はあなたが考えているのを見ています」と思えばいいのです。これも一つの方法です。幸いなことに、あなたはそれが自分ではないとはっきり認識でき、これはとても貴重なことです。あるいは考えないように抑制すれば、修煉者としてできることをしたことになります。身体がリラックスして、演化に最も良い状態に入ります。しかし、考えが静かにならず、演化に最も良い状態になれなかったら、どうしたらいいのでしょうか? 皆さんも知っているように、私たちはミクロから修煉しているので、ミクロのところが入静しているのです。ミクロのところから、だんだん静かになり、修煉がますます向上してきた時、表面上のものが制約され、次第に弱くなります。表面になればなるほど悪くなりますが、しかし表面になればなるほど弱くなります。つまりこのような関係です。多くの人はとても長く修煉しましたが、思想にまだ良くないものがあることに気づきました。あなたがそれを抑制しようと思えば抑制できます。それが悪ければ悪いほど、ますます表面のものになっていき、だんだん弱まります。なぜならその根がなくなったからです。

弟子:西洋人の煉功者として、どのように是非をはっきりとさせ、生活するのでしょうか? 自然に任せるべきでしょうか?

師:私はこう思います。私が自然に任せると言ったのは、異なる状況下での話であり、何でも自然に任せるようにと皆さんに説いているのではありません。会社で働いているなら、給料をもらっているので、仕事をいい加減にして自然に任せて努力もしなければ、給料をもらう資格はありません。私たちはどこにいても良い人でなければなりません。ですから、皆さんに言いますが、自然に任せるということは場合によると思います。修煉においては自然に任せるべきですが、人為的に自分の良くない面を抑え、努力して修煉しなければなりません。これは自然に任せるとは言えません。実際、私たちはみな、このように修煉しています。積極的に自分を修め、生活の中でできるだけ常人社会の形式に符合すべきだということは、修煉を通じて皆さんはすでに非常に明確に理解しています。ですから、常人の仕事と修煉を分けなければなりません。必ず分ける必要があります。仕事は仕事、修煉は修煉です。ただし、あなたは修煉者ですから、自分に高い基準で要求することは仕事にも反映され、社会や家庭、さまざまな社会環境の中で現れてきます。つまり、どこにいてもあなたは良い人で、皆に良い人だと思われます。つまりこのような関係です。私たちが言う、自然に任せるという概念は、以前に説かれていたようなものではありません。何も構わなくなり、ただそこに座っているだけで、出家したようになることが、自然に任せるということではありません。決してこの概念ではありません。

 もし何か厄介なことに遭ったら、修煉者として、まず自分を反省すべきだと思います。自分のどこかがきちんとできていなかったため、引き起こされたのではないでしょうか? 修煉者がもしこのようにできなければ、前進できません。ですからすべての人は、もしトラブルに遭ったらまず自分を探すべきです。自分のやり方が間違っていたのではないでしょうか? 「宇宙の中のすべてはみな穏やかである」と私はよく言っています。自分が間違ったために、事がねじれ、他人ともねじれてしまい、周囲のすべてがおかしくなったと感じ、人と人の関係にも緊張が発生します。この時、自分の原因を探し、自分の良くないところを正せば、すべてがまた穏やかになり、順調になります。他人と言い争うことは勧めません。もし本当にトラブルに遭い、他人が私を不公平に扱ったように見えても、修煉者として、前世にその人に借りがあったかもしれず、少し我慢して気に留めないほうがいいのです。常人でも知っているように、二人が言い争いになったら、最後にはけんか別れになり、いざこざが生じ、二人の間はなかなか解決できません。時間が長くなると、ますます解決しにくくなり、最後には仇となってしまいます。私たちはそれを堪え忍び、気にせず、譲歩することができます。中国には「一歩引き下がれば、世界が広々と開ける」という言葉があります。それでも争ったり、突っ張ったりすれば、本当に解決の道がありません。一歩下がって、その心を放下し気にしなくなれば、広い世界が目の前に開け、全く別の光景になります。こういうことです。修煉者としてこうあるべきです。もし常人と同じように言い合ったり、争ったり、矛盾の中で同じように振る舞えば、私たちは常人と同じようになってしまいます。そうではありませんか? 実はそういうことです。

弟子:どのようにして自分の次元を知ることができるのでしょうか?

師:私の主観から言えば、当初、本当に皆さんに自分の次元を知ってほしくありませんでした。一人の人間がこれほど大きな法の中に熔け込んでいるのです。例を挙げると、もし一片の木屑が、熔けた鋼鉄が入った熔鉱炉に落ちたら、瞬時に見えなくなるようなものです。これほど大きな法で人間を熔かせば、あなたの身体の業力、思想業力、さまざまなものが瞬時になくなります。もし完全にこのようにすれば、あなたは修煉していないことに等しく、私が生命を造り直していることになり、あなたの修煉とはみなされません。ですから、私たちはこのようにしてはいけません。皆さんは自ら修煉し、自分で自分を変えていかなければなりません。この法はとてつもなく大きいのです。修煉の過程で、自分を修煉者とみなして着実に修煉し、絶えず本を読んでいけば、すでに絶えず昇華し、向上しているのです。その上、補助的な手段──煉功を加えれば、あなたの向上は非常に速いものになります。これが最も速い修煉形式なのです。

 初めのころ、皆さんに自分のいる境地を知らせたら、「ああ! 私は神のようだ! もうこんなに修煉できたのか」と、あなたは心をうまく制御できなくなります。もしあなたの身体の周りに起きた本当の変化を皆さんに見せれば、常人の七情六欲など各種の執着心があるので、心が動揺せずにいられますか? あなたは常人としての考えがまだ強いので、早い段階であなたに知らせることができません。これは皆さんが修煉の中で絶えず向上し、最も速い速度で向上することを保証するためです。上士が道を聞けば、悟りを通じて圓満成就します。これが最も素晴らしいのです。これが最も速いものであり、本当に最も速いのです。

 弟子によってそれぞれの情況は異なり、開かれている状態、あるいは半ば閉じられている状態で修煉している人もいます。このような人はいろいろ見えます。中には、非常にはっきり見える人もいて、その人にはすべてが分かります。これは個別の情況ですが、多くの人は閉ざされた状態で修煉しています。ひたすら本を読み、修煉すれば、あなたは絶えず自分を高め、天機を悟り、法理そのものからもあなたを確信させます。もちろん、今日の社会の人は、常人社会の各種のいわゆる偽の現実にひどく惑わされ、深く執着しており、なかなか抜け出せません。法と個人の利益に対する執着の間でいつも対峙しており、甚だしい場合、法を放棄しても執着を放棄しません。これらのこともなんとも言い難いのですが、今日の社会はすでに、人間は本性も、人としての基準も分からない段階にまで来てしまったからです。

 しかし、社会が良くなければ良くないほど、私たちの修煉に最良の環境を提供してくれます。複雑な環境であればあるほど、修煉によって高人が現れてくるのではありませんか? まさにこの道理です。数年前、中国に多くの気功師が現れましたが、常人はみな、彼らに感服し「すごいですね。気功の大家で、本当に能力がありますね」という具合でした。人の病気を治したら、何らかの利益、ひいてはお金を受け取ります。物質的利益に対する追求もますます強くなり、多くの人がこれで落ちてしまい、功もなくなり、完全にだめになり、彼の師父からも見放されてしまいました。なぜでしょうか? 以前、彼らの修煉は常人の知らない環境で修煉していたからです。山の中や人に知られていない環境、または寺院、あるいは他の宗教のような形式の中で修煉していました。彼らは常人社会の現実と複雑な利益に全く接触せず、この大きな染め物がめを経験していなかったのです。一旦社会と接触するようになると、複雑な社会に汚染され、最後には常人と同じように名利を追求し、一人の常人になってしまいました。彼らの修煉方法は常人の中では通用しないからです。しかし、私たちはまさにその大きな染め物がめの中で修煉しています。接触しているものはみなそのようなものであり、そこから脱皮できれば、あなたは素晴らしいのではありませんか?! なぜ高くまで修煉できるのか分かりますか? あなたが高くまで修煉できる最も基本的な保証は、ここが極めて腐敗しているからです。そこから抜け出すことができれば、または修煉したいという念が生じただけで、あなたは素晴らしい人です。このような環境で、苦しみの中に浸かっていても、あなたにまだそのような心があるのです。

 表面的、形式的な苦しみは大したことではありません。その心を切り捨て、執着を放下するときの苦しみこそ、本当に骨身に沁みるものであり、最もつらいのです。この複雑な環境は、あなたが高い次元を目指して修煉するのに最も良い条件になりました。逆の角度から言えば、このような最も良くない形式の下で、初めて大法の威力が現れるのです。良い社会環境ではこの大法も必要ありません。また良い環境では法を正す必要もなく、世間にイエス、釈迦牟尼の如来の法があれば十分です。しかし、なぜ現在の宗教が末法時期に入り、すべての宗教が人を済度できなくなったのでしょうか? 人々は佛さえ罵り、イエスの像を足で踏みつけて放尿するまでになりました。このような時にまだ法を学び、人を済度することは、すでに不可能になりました。

弟子:私は一心に修煉したいのですが、どうすれば大法を疑わないようになるのでしょうか?

師:すべての人の考えは、常人社会にいると後天的に多くの観念が形成されます。常人社会の偽りの現実の知識を受け入れることで、あなたはここで深く迷わされます。思想の中にさまざまな観念や固定された考えが形成されており、これらすべてがあなたが法を得る要素を妨げています。頭に浮かんだ疑問は、常人の現実の中で認識したものをもって、法を量ることにより引き起こされたのではないでしょうか? そのために疑問が生じたのではないでしょうか? きっとそうです。つまり、あなたは常人の知識、常人の考えから形成された観念をもって法を量っています。常人は最低の次元にいるのではありませんか? 常人は迷いの中にいるのではありませんか? 常人に宇宙の真理と肩を並べるものが一つでもあるでしょうか? 何もありません。私たちの大法は、常人という最低の形式に立脚し、人間の言葉で、最低の表現方式で説いています。ですから見た目ではとても表面的のようです。しかし絶えず学んでいけば、ますます次元が高くなり、ますます奥深く、遥かに遠くて届かないと気づくのです。一方、常人の知識にはこれらの内涵はありません。もし信じない、疑いの気持ちをすべて自分の考えとみなしてしまえば、それは大間違いです。それは常人の中で後天的に形成された観念であり、あなた自身はそれを自分のものとみなしていますが、実はそれはあなたではありません。

弟子:私は煉功する前から天目が開いており、占いで生計を立てています。この仕事をやめる必要があるでしょうか?

師:もしあなたが煉功しておらず、常人であれば、私は反対しません。私は修煉者に、修煉できるように説法をしています。私は誰にでも大法を修煉するようにと言っているわけではなく、あなたが修煉できると思えば修煉すればいいのです。修煉できないと思えばしなくてもいいのです。将来の人類社会に占いのような小道や風水、あるいは何らかの方法で病気治療をするものが存在するかもしれません。古くから全世界にこのようなものは存在しています。修煉者として、将来ますます高い次元のものが見えるようになり、あなたが話した言葉に込められたエネルギーもますます強くなります。占いをする際に問題が生じる可能性があります。この世の事は時に安定しておらず、こうなるかもしれないし、こうならないかもしれません。もしその人があなたの話を信じて、とても信じていれば、彼もそれを強化することができます。あなたにはエネルギーがあるので、あなたが言った話はその不安定な要素を決めてしまうかもしれず、本来そうなるべきでない事をそのようにしてしまいます。あなたに見えたものは物事の本質ではなく、他にまだ因縁関係があります。あなたがそれを話してしまうと、それを確定させてしまい、結果的に悪いことをしてしまう可能性があります。しかも、この業力はあなたが修煉の中で余計に加えたものですが、あなたの関、難はすでにそこにあります。一つ一つの関や難はあなたが乗り越えられるようにしなければなりませんが、余計に加えた難はあなたには乗り越えられません。もし大きな影響を及ぼしてしまったり、非常に悪い結果を招いてしまった場合、あなたはこの関を乗り越えられず、修煉できなくなってしまいます。ですから、修煉者は口を修めなければなりませんが、これはあなたには無理です。もし見えたものを直接口にしたら、それは天機を漏らすことになり、しかも無責任に勝手に常人に話しており、このようにしていいのでしょうか? それはなおさら、いけません。

 さらに皆さんに教えますが、占いをする人は自分自身の要素以外、多くの場合、外来の要素が作用している場合がほとんどで、それは非常に恐ろしいことです。一つの生命にとって非常に恐ろしいことです! それでは修煉できなくなります。私はただ人間にこのことの道理を教えているのであって、常人が占いをすることに私は反対しているわけではありません。あなたが修煉したければ、私はあなたに対して責任を持たなければならず、この道理を教えなければなりません。もし、そのようなことをしたら、あなたには良くない結果しかもたらされません。そこであなたはきっと「私の生活はどうすればいいでしょうか?」と思うでしょう。私はただ修煉者に道を説き、法を説いています。修煉できれば修煉すればよい。このように話すしかありません。しかし、私はあなたに責任を持たなければならないので、逆に言えば、大法弟子として、あなたが生活できるようにしてあげなければなりません。そういうことになります。

弟子:どうすれば恐怖心を放棄できるでしょうか?

師:恐れも執着です。それは自分の意志が強いかどうかの問題で、克服すべきものです。「煉功するとすぐに眠くなる」という人がいますが、それも自分の意志で克服しなければなりません。それらは魔ではありませんが、修煉者に魔の作用を及ぼします。それを突破しなければ、それはあなたに作用してしまうのです。

弟子:私はどうしても下腹部で法輪が回っているのを感じ取ることができません。

師:誰でも感じられるわけではありません。敏感な人はエネルギーが動くと、「おや! こんなに強烈なのか」と感じます。ある人はお腹で天地がひっくり返るほどのことがありましたが、彼には感覚がありません。それぞれの身体の情況が違うので、感覚で人の次元の高低を判断しないでください。絶対に感覚に頼って判断しないでください。

弟子:私の天目はいつまでも開かないのでしょうか?

師:あなたは求めているのですか? 圓満成就してもまだ開かなければ、それは問題です。あなたは修煉の過程でずっと開かないのかと言っているのでしょうか? もしそれを求めるなら、もしこのような考えが、たとえ少しでもあれば、見させません。見えるようになったとしても、見させません。なぜなら、あなたの心、その執着が取り除かれていないからです。ですから、その執着を放棄し、気にかけなくなれば、その時どうなるかまた見てみましょう。

 白人の学習者はまた東洋の学習者と違い、東洋、特に中国の文化の淵源は比較的深いのです。五千年、六千年の文化があるだけでなく、前期の先史文化も受け継いでいます。ですから、その骨や細胞にまでみなとても深い文化の内涵が沁み込んでいます。それに対して、白人社会の文化は二千年しかなく、その迷いを破るのはとても簡単です。迷いが破られると、ほぼ見えるようになるのです。しかし、中国人はどこが違うのでしょうか? あることの原因を教えると、彼は「なるほど、これは正しい。ならば、そのなぜはなぜか?」とまだ考えています。再びその原因を教えてあげると、彼は「なるほど、ならばそのなぜのなぜは、なぜか?」とまだ考えています。ですから、最後まで迷いを破って、初めてすべてを開くことができます。これは多くの白人の学習者が大法を学んだら、なぜすぐ恍惚としている間に何かが見えるかですが、つまりこの原因のためです。彼は常人社会の表面的なものにあまり封鎖されていないのです。それはただの道理です。常人の道理が彼を束縛しているので、その道理を破ってしまえば、常人の中で彼を束縛できるものはもうなくなります。つまりこういう意味です。もちろん、すべてこの情況ではありません。感性的な認識と理性的な認識はやはり違います。もし本当に心の底まで法を学び、修煉していく中で法を真に認識するようになれば、それはやはり初期の感性による認識とは違い、昇華して理性的に法を認識するようになります。

弟子:出家人に対して、いかに法を広めればいいでしょうか?

師:私は出家人のことがいつも気に掛かっています。特に数年前ずっと彼らのことで焦っていました。なぜなら、釈迦牟尼にせよ、イエスにせよ、これらの大覚者は修煉を創立しました。修煉している弟子はそれを継承し、なんといっても彼らも佛門の弟子なので、私はずっと彼らのことを気に掛けています。しかし、末法時期はすでにここまできて、宗教の中で本当に修煉したいと思っている人は確かに多くありません。私はあることに気づいたのですが、多くの出家人にとって、彼が維持し守っているのは神佛ではなく、宗教なのです。彼の心は修煉になく、完全に宗教の形式を維持し守っています。このような執着はある深刻な障碍をもたらしました。また、宗教の形式以外に佛法はなく、みな邪法で邪道だと思っている人もいます。これが法を得ることを阻害する最大の要素です。しかし、本当に自分の考えをもって、真に道理からすべてを量ることのできる人もいますが、このような人は立派です。このような人は私の本を読んで、読み終えたらこれが何であるか分かるのです。なぜなら、すべての人にみな、佛性があるからです。電気の両極が接すると「パチッ」と繋がるように、分かるのです。佛性がなければ、繋がることができません。反応を起こすことができず、電気も通りません。ですから、一部の出家した弟子は他と違い、本当に立派です。なぜなら、出家の目的は修煉のためだと知っているからです。一方、この正念をもっていない人もいます。宗教についてはこれぐらいにしましょう。これはついでに触れただけです。もしあなたが、ある出家人の居士や友人、あるいは親戚であれば、大法のことについて話してかまいません。本人が修煉したければ修煉すればいいのですが、したくなければそれでいいのです。「修煉しに来てください。あなたが修煉しなければ本当にもったいないのです! ぜひ私と一緒に行きましょう!」と決して無理に人を引っ張ってはいけません。人の情だけで心は変えられません。人の心が自ら動くことで、初めて修煉できるようになります。

弟子:寺院で定職に就いている僧侶はどのように着実に修煉するのでしょうか? 還俗する必要があるのでしょうか?

師:還俗する必要は全くありません。なぜでしょうか? 私が不二法門という問題を説いたのは、私たちが今、修煉している法に対してです。昔、佛経にあるすべての文字の背後にはみな、佛の形象がありました。今、経典を開いても全く見えなくなりました。釈迦牟尼とイエスの名前の背後にさえ彼らの形象がなくなりました。つまり佛経は人を済度する力がなくなり、ただの紙と活字になりました。また法事も、一種の宗教儀式にすぎず、私はそれを常人の仕事として見ているだけです。実は多くの和尚はこのような儀式を仕事として見ており、自分はお金をもらって働いていると思っています。中国大陸の和尚は課長クラス、部長クラスにランク付けされ給料をもらっています。さらに局長クラスの和尚もいるそうです。彼らは釈迦牟尼の本来の教えを変えました。それが釈迦牟尼の伝えた法を破壊していることに人々は気づいていません。ここまできたら、釈迦牟尼も当然、見放します。佛教がこのようになったので、私はそれを仕事として見ています。和尚は経を唱えても、法事を行なっても、何の効果もありません。大法さえ修煉すれば、私たちは何の形式にもこだわりません。大道無形だからです。これほど大きな法は常人の中のいかなる形式にも適しません。私たちは緩やかな管理を行い、人の心だけを見ています。修煉すれば、私が見守りますが、これらのことは常人には見えないのです。ですから、常人社会のいかなる形式にもこだわりません。形式がない以上、常人の中のすべてを私は仕事として見ています。私はこのように見るしかありません。和尚でありながら修煉する人は、法事を行いたければ行なっても構いません。自分が大法を修煉している者だと分かっていればいいのです。いかに精進するかに力を入れるべきで、このように対処すればいいのですが、他の宗教についても同じことが言えます。

弟子:清浄心とはすべての執着を取り除き、興味のあるものまで放棄しなければならないのでしょうか?

師:真に清浄な心の状態になれば、そうなります。しかし、あなたは常人の中で修煉しているので、すぐここまでできれば、その場で佛になります。ですからこれはあり得ない話です。佛の境地に到達するには、修煉の過程が必要で、しっかりした思想の基礎を築き上げなければなりません。つまり絶えず修煉し、絶えず深まり、自分を高め、ますます高まっていきますが、これは徐々に達成されるものです。すぐそこまで達しなさいと要求すれば、あなたは恐れて修煉をやめてしまうかもしれません。なぜなら、あなたの思想はそれほど高くなく、常人から始めているからです。あまり気を遣わなくても、ゆっくりと自然に到達することができます。修煉し、本さえ読んでいれば、達成できるのです。法理はあなたのすべての問題を解決することができます。無理に行うのではありません。無理強いで何かをすることも有為です。ただ自分を修煉者とみなしていればよく、これは明確なことです。皆が自分の心を修め、できるだけ悪いことをしないようにしますが、これはできる限りあなたの先天的な本質に近づこうとすることであり、有為ではありません。

弟子:科学は宗教だとおっしゃいました。一方で、私はまた科学研究の仕事をしっかりやらなければなりません。この矛盾する状態の中でいつも悩んでいます。

師:科学は宗教だと私は言いましたが、すでに非常に詳しく話しました。なぜそれは宗教なのでしょうか? しかも、非常に完備されている宗教なのでしょうか? それは徳を重んぜず、神の存在も認めないからです。それには神の存在が見えず、悪いことをすれば応報に遭い、良いことをすれば良い報いがあると認めていません。良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば応報に遭う、神は存在すると言う人がいれば、それは科学の理論をもってその人を否定し、打ちのめします。ひいては正教まで打ちのめし、人類の道徳を破壊します。人に心の縛りがなければ、どんな悪事でも働いてしまいますが、この点から言えば、科学は正しいものなのか、それとも邪なものでしょうか? それは邪に作用しているのではありませんか? 現在の人はなぜこれほどひどく道徳を喪失しているのでしょうか? つまり、人々に正しい信念がなくなったからです。西洋人は特にそうですが、実はあなたたちが本当に信じているのは宗教ではなく、あなたたちの科学です。自分の思想の深いところまで考えてみてください。皆さんが最も信じているのは本当に科学なのです。皆さんにとって他のどんなものも二の次のことで、その科学だけが非常に重要なのです。それが修煉にとって一つの障碍となっているので、皆さんに明らかにしました。

 聞くところによると、ローマ教皇庁はかつて、人間が猿から進化してきたことを認めず、人間は天主に泥で造られたと信じていたのです。しかし、教皇庁も現在は、公に人間が猿から進化してきたと認めるようになったそうです。これでは、自分たちの主を否定してしまったのではありませんか。この科学にはどれほど大きな力があるのでしょうか。現代の人々はみなそれを信じています。大から小まで、私は人類のいかなることもはっきり説明することができます。また古から今日まで、人類が発展してきた中での一切を私は明白に説くことができます。しかし、それはすべて常人のことなので、あえて言う必要もありません。私が話すのは、皆さんの修煉と関係があるからです。科学のほとんどの認識の基点、つまり物質、宇宙、生命に対する認識の基点は、すべて間違っています。オーストラリア上空のホール、つまり南極上空に現れたオゾン層のホールについて、現在の科学は、工業の排気ガスやクーラーに使用されているフロンガス、およびその他の排気ガスによるもので、これらの排気ガスがオゾン層を破壊したと言っています。皆さんに教えますが、実はこの宇宙にあるすべてのものはみな、生命であり、生きているのです。厖大な気体はあなたには見えませんが、幾層にも重なり、数え切れないほどあり、すべて生命であり、神なのです。現代科学がもたらした工業は人間の生存環境をひどく破壊しており、これは確かなことです。しかし排気ガスが南極上空にホールを作ったわけではありません。人間が神を破壊することはできません。なぜ、工業が発達しているヨーロッパにホールが現れなかったのでしょうか? なぜ、人間がいない南極に現れたのでしょうか? それは、神が地球上に排気ガスや毒ガスが多くなりすぎたのを見て、自ら窓を開け、それらのガスを外に放出し、その後また閉じるからです。全く現在の科学が認識しているようなことではありません。

 現在、人類の発展はすでに科学があらゆる領域を操るところまで来ました。ですから、人類はいま科学を振り捨てることができず、それがすでに人類社会の発展の現実となり、それに従って行動しなければならないところまで来ました。私たちは最大限に常人に符合しながら行動しているので、自分の科学研究の仕事をきちんと果たせばいいのです。これはあなたの間違いではなく、個人や民族、あるいは国家が回避できるものではありません。自分の仕事である以上、しっかりとやり遂げ、職責を全うすればいいのです。ただそれだけです。自分が科学のために何かをしていると思わないでください。実は、科学はすでにあらゆる隙間に入り込み、人類のすべての領域を占領しているのです。人類の一切はほとんど科学のために存在していますが、だからといって何もしなくてもいいというわけではありません。私は、修煉者にこの道理を理解してほしいだけです。現在の人類社会がすでに回避できないこの現実を放棄し、仕事を放棄するように言っているのではありません。

 私が話した科学は宗教であり、しかも完備された宗教です。それはまず物質上からあなたに認識させ、それから精神上の信仰に到らせるのです。それに対して、本当の宗教は道理からあなたに分からせ、真に思想から分かるようにさせ、最後には無形から有形に到達させるのです。最後には、本当に物質からもそれを認識することができ、圓満成就した後、天国に戻ります。このような過程です。科学は逆になっています。それはまず物質上から人間の精神を動かします。宗教は精神上の認識から物質の変化をもたらしています。私がこの道理を説いたのは、このことを分かってほしいからです。科学はすでに社会の現実になりましたが、私は人類が依存している科学に反対しているのではなく、ただ現在の科学における真実の情況を話しています。

弟子:因果関係と慈悲心について説明していただけないでしょうか?

師:あなたは慈悲ということに言及しましたが、あなたの考えを正し、慈悲とは何かを教えましょう。常人社会で楽に暮らし、何の災難もなく、毎日快適に暮らし、お金も十分あり、欲しいものもすべて揃っていれば、神は人間に対して慈悲深く、優しいと人々は思っています。皆さんに教えますが、神はこのようなことをしません。もし本当にこのようなことをしたら、それはあなたにとって非常に悪いことなのです。この世での理はすべて反対になっているからです。皆さんは知っているように、人々はこの世で生活しており、社会との関わりがあるので、業を造ることがあります。イエスは「人間にはみな、罪がある」と説きました。なぜなら、罪があるからこそ、常人のこの空間まで落ちてきたからです。この空間で、生々世々に業を造り、罪を犯しているのに、楽に暮らそうというのは、業を返さないことではありませんか? 業を返さず、さらに今生に造った業を加えると、来世は人体さえ得られず、もっと良くないものに転生してしまうかもしれません。これ以上業を造れば、地獄に堕ちるしかありません。さらに堕ちれば、消滅してしまう羽目になります。この道理から見れば、神がどのようにあなたに対することが、本当にあなたのためになるのでしょうか? これが因果です。

 しかし、本当の慈悲に対して私はどのように見ているのでしょうか? もしある人が本当に良い人であれば、彼は一生のうちに多くの困難に遭います。これらの困難は、彼が過去に積んだ業を返させ、今生の時間を大切にして、できるだけ早くすべてを返させるためです。人体を持っている今生で、借りをすべて返して天国に行き、永遠の幸せを得ることができるので、常人の中で苦を嘗めることがあります。それでは、皆さん考えてみてください。どちらが本当の慈悲でしょうか? 物事に対する佛の見方は人間とは絶対違います。常人は、佛がこの世で幸せを与えてくれることが、佛や神の慈悲だと思っています。逆に苦を嘗めることがあれば、「神はどうして私を見守ってくださらないのだろうか? 私は見捨てられた人間だ!」と怨んでしまいます。これはまさに神があなたを見守っているのです。あなたが業を返し元に戻れるようにしており、生まれることも消滅されることもない、永遠に二度と落ちないところに帰るのは、なんと素晴らしいことでしょう。これこそ本当の慈悲です。皆さんは修煉していますが、私はどうして皆さんのすべての苦を取り除かないのでしょうか? 関を乗り越えることにも遭わせず、皆さんを高い次元まで連れていけば、これはどれほど慈悲でしょう! それではいけません! 皆さんは自分が造った業は自分で返さなければなりません。できるだけ早く、できるだけ早く返してから、私はやっと皆さんを済度することができます。この道理ではありませんか? 私は別の角度から慈悲を説き、慈悲とは何かを説いています。法は常人に説いているのではなく、皆さんに向けて説いているのです。このことを永遠に忘れないでください。常人は永遠に迷いの中にいて、これらの道理を知ることは許されず、人間は取りも直さず人間なのです。しかし、学習者は取りも直さず学習者であり、修煉者は常人とは永遠に異なるのです。

 皆さんに一つ教えましょう。世の中に偶然なことはなく、神は常に見ています。この空間には、輪廻転生、社会の安定を管理する神もいれば、社会の体系、地球の安定、また空気や、各種の空気の成分を管理する神もいます。さらに、それぞれの神が地球で何をしているのかを見守っている神もいます。さまざまな神がいるので、これらのことを見て手をこまねいていられるでしょうか? 常人社会で勝手に何かを起こしたければ起こせるのでしょうか? 絶対に不可能です。

弟子:相生相克の理というのは、次元の高い空間ではこの二種類の物質の中の一つは真・善・忍により近いということなのでしょうか?

師:このように理解するのではありません。宇宙全体は真・善・忍によって構成されています。このように話しましょう。この二種類の物質も、真・善・忍によって宇宙で造られたのです。もし宇宙に正の面しか存在していなければ、生命にとってあまりにも気の毒で、幸せもなければ、苦痛もなく、何の生きる意味もありません。魔難があるからこそ、苦痛を味わい、幸せを手にすればそれは大事にすべきで、貴重だと感じ、生きることに味わいを感じるようになります。宇宙に正の一面が存在しているので、生命のために負の一面も按排し、同時に、生命の業を滅してあげることもできます。

弟子:根本に関わる問題が解決された後、大法を守ることに言及する度に、私は情熱的になります。師父にお尋ねしたいのは、この状態は正しいでしょうか?

師:間違っています。正しくありません。皆さん、くれぐれも気をつけてください! まさに先ほど話した問題のように、正の一面があれば負の一面もあります。負の一面は下の次元へ来れば悪の一面となり、正の一面は下へ来れば善の一面となります。ですから、皆さんに教えますが、常人社会で私たちは、常人社会の人々がしているようなことを決してしてはならず、必ず善の一面を作用させなければなりません。釈迦牟尼佛は、衆生にはみな佛性があると説きました。実は皆さんに教えますが、同時に衆生にはみな、魔性もあります。つまり魔性と佛性は一つの生命に同時に存在しているのです。人が怒っているとき、かんしゃくを起こしているとき、理性を失っているとき、それは魔性です。理性的で、和やかで優しく、慈悲の状態にあるとき、それは佛性です。異なる二種類の性質は異なる状態に現れてくるので、私たちは永遠に善の一面で物事に対処しなければなりません。この間、テレビ局は私たちに対して不実な報道をしましたが、彼らを訪ねていった際、皆さんはとても理性的で、善意をもって話しました。多くの人が行きましたが、人が多いのは悪いとは限りません。態度と方法には善と悪の違いがありますが、完全に和やかで善の態度で道理を話し、国の政治に干渉せず、公共物を壊すこともなく、みな修煉者らしく、彼らに私たちの道理を訴えました。「このような人たちは見たことがない」と彼らも感動しました。逆に、人類社会になぜ暴力があるのでしょうか? 常人が何かを訴え、道理を話そうとするとき、デモ行進のやり方を採り、暴力を振るい、「ウォー」と叫び、ひいては武力まで行使してしまいます。これは人に魔性の一面が存在しているためであり、それは常人なのです。私たちは修煉者なので、善の一面だけを使い、悪の一面を用いてはいけません。常人は善と悪の両方を使っており、常人は道理も説けば、暴力も振るいます。道理で押し通すことができなければ、手を出し、罵り始めますが、常人には善と悪という両面があるのです。

弟子:宇宙を片付けた時、地球に逃げて来た宇宙人がいると先生はおっしゃいましたが、彼らの生存形式は憑き物なのか、それとも何か他の形式なのでしょうか?

師:まず宇宙人のことについてお話します。皆さんが知っているように、私たちのこの地球がこの宇宙で唯一の生命のある星ではなく、地球の存在もこの一回だけではありません。今の地球の位置にはかつて、以前の地球がありました。以前の地球は廃棄されたことも、爆発されたこともあり、何回も起こりました。その数はとても多いのです。毎回、地球の最終段階の時、必ず生命が最も腐敗し、物質が不純になった時であり、それ以上存在することができなくなります。その時、地球全体が業力の塊となり、淘汰されてしまいます。生命は、土、石、植物、物質に転生しますが、どのようなものに転生しても、業力を伴っているので、至るところに業力があり、次第に地球は業力の塊になり、淘汰されてしまいます。地球にはまだ少し良い人もいますが、それは極めて少なく、数えるほどしかいません。このような人たちを取り出して三界にある別の星に移します。しかしこの地球は年月が経つにつれ、何回淘汰されたか分かりませんが、淘汰される度に残った人がいます。そのため、残された生命もだんだん多くなりました。各時期に神が造った人間の形象も異なるため、その差異も非常に大きいのです。また他の星で生まれたものもいますが、これがすなわち宇宙人です。

 それらは歴史の記録となり、歴史の一ページとして残されるといった程度の役割しかありません。それは当時の地球の末期に残されたもので、当時の技術を持って別の星に行ったため、技術の出発点が高いのです。長い歳月の間に、それらが把握した宇宙の状況はすでに現在の地球人を遥かに超えています。その身体は別の空間に入り、その空間場の状態に適応できる程度にまで達したのです。それらが乗っている、人が空飛ぶ円盤と呼ぶ飛行物体で、別の空間に入り、別の時空で飛行することができます。もし速度の速い時空を飛んでいれば、入って時間があまり経たないうちに、すでに遠くまで行ってしまい、その速度は人間にとって摩訶不思議なものです。使用されている燃料は、全く現在の科学が認識し得た物質、および技術の理論概念ではありません。

 長い歳月の中で、これらの宇宙人は絶えず発展し、絶えず変異していきました。この宇宙には、このような生命が生存している正常ではない社会関係が現れたのです。貪欲と欲望により、それらのところでは、本当に宇宙大戦のようなことが起きました。まだ人類まで脅かしていないのは、人類にまだ彼らを脅かす能力がないために、それらは人類を攻撃していません。もし、彼らの脅威となれば、人類を攻撃してきます。しかし、宇宙人は人類を攻撃してはいませんが、人類の身体が最も完璧なものだと分かっています。ですから、それらは人体が気に入り、人体を盗み取ろうとしています。科学を人類のあらゆる領域に浸透させ、人間に科学を信じ込ませ、依存させています。人間の思惟と生存方式が完全にそれらに同化するようになった時、それらは人間の元神を取り替え、最終的に人類に取って代わります。

 遡れば、西洋社会に産業革命が始まった時から、それは全面的にやって来ました。それ以前にもすでに来ましたが、手を出さなかったのです。全面的にやって来たのは、白人社会が工業社会に入った時です。それらはこの地球を占領するために綿密に準備し、系統的に段取りしました。それらが人間のために科学を作り出し、科学は宇宙人が作った代物なのです。その目的は、人間を統一し、人間の思想を簡単にし、機械のように規格化してしまうところにあります。知識を統一させ、将来容易に操り、人間に取って代わることができるようにしました。さらに、それらはまた将来全面的に人類を操るための先導として、いくつかの民族を選びました。日本は技術の上での先導です。アメリカは地球のすべての古い文化を破壊するための先導です。そのため最も古く、閉鎖的な国の文化まで免れることができず、全世界がアメリカの現代文化の衝撃を受けています。またイギリスは初期の機械製造の方面での先導であり、スペインは人種を乱れさせる先導です。宇宙人が人間を神の守りから離れさせる方法は人種を乱れさせ、現在の交雑させた植物のように、源のない人間に変えることです。南米、中米、メキシコ人と東南アジアの一部の人はみな、乱された人種となりました。このすべては神の目から逃れることはありません。宇宙人はすでに相当充分に準備し、人間に取って代わろうとしています。

 コンピュータを操作できる人はみな、番号を振られています。もちろん、学習者にはこのような問題はありません。皆さんが法を得たら、私はそれらに占有された一層の身体を取り除いてあげます。それらは人間の身体の中で、すでにそれらの一層の身体を形成しました。これは非常に恐ろしいことです! なぜなら、人々が小学校から大学まで学んだものは、すべてそれらがもたらした科学で、さらに今人類が使用しているすべては、あらゆる領域に浸透した科学によってもたらされたものだからです。コンピュータと技術に関する人間のひらめきは、なぜ飛躍的な勢いで進んでいるのでしょうか? これは宇宙人が人類に形成したそれらの一層の身体を操って行なったのです。それらの技術と科学によって人間の身体に形成したものが人間の考えを操って行なったのです。現在コンピュータの発展は凄まじいですが、それは人間の技術ではありません。人類はこのままでは宇宙人に取って代わられてしまいます。しかし、皆さん考えてみてください。宇宙人はなんといっても、常人のこの三界内の生命であるにすぎません。それが敢えてこのようにしていることには、他の原因があるのです。つまり宇宙の法にずれが生じたために現れたことであり、神も見放したからです。そのため、高級生命とも関係しています。ですから、このことを改めるには、上から行わなければなりません。なぜならば、それらは一つの観念を持っているからです。つまり、人間がだめになり、道徳も腐敗堕落し、すべてがだめになったため、どうせ淘汰されるので、取って代わられても構わないと思っているからです。佛が人間に対して慈悲を持っているのは如来と菩薩が人類に最も近く、最も次元の低い佛だからです。この次元を遥かに超えた佛は、振り返って見れば、如来佛も常人として見ています。それならば人間は何でしょうか? 何者でもありません。悪くなれば消滅させて造り直せばよいという概念です。慈悲は彼らにとって人間に対してあるのではなく、佛に対するものなのです。さらに高い次元の神は、振り返って見れば、人間は全く何者でもなく、微生物にも及ばないと思っています。こういう道理ではありませんか?! 「先生が私たちを済度していますが、先生はこのように済度すべきです、あのように済度すべきです」と言う人がいます。私に言わせれば、佛があなたを済度しなければ気持ちが辛くなり、どうしてもそうしたがっていると思いますか? このようなことではありません。佛は人間に慈悲があり、皆さんに慈悲があるからこそ、このようにしているのです。人間はどのように済度されるか、どのように修煉するかを自分で選ぼうとしていますが、自分が何を言っているかも分かっていません。

 宇宙人はこのような情況です。上でそれらを片付けているので、それに気づいて、それらはここに逃げ込んできました。この数年は特に多いのです。しかし、私が行なっていることも系統的に按排されていることをそれらは知らないので、どこまで逃げても逃げ切れないのです。それらは仕出かしたすべての悪事をすべて償わなければならず、これは明確なことです。この宇宙の理は、いかなる生命に対しても、絶対的に適っているので、それらは自分たちが行なったすべてに対して償わなければなりません。それらの生命を最終的にどのように処理するかにいたっては、今後、絶対に宇宙人は存在しません。もし宇宙人の中に本当に良い者がいれば、その生命は他の生命に転生することができます。それに対して、良くない生命は淘汰されてしまいます。ですからすべての人間も含めて、一切の生命が行なったすべては自分の将来の位置を決めています。人間も何を行なったかで、自分の位置を決めているのです。

 現在、大多数の宇宙人は一命を取り留めるために逃げ込んできましたが、最終的に逃げきれないとすでに分かっているので、地球人と通婚する宇宙人もいます。しかし、それは正当な通婚ではなく、誰もそれらと結婚しようとしません。それらは農村の女性を捕まえて後継ぎを残そうとしています。常人の中に隠れているものもいます。しかし、いくら隠れようとしても隠れきれません。厖大な功はミクロから来て、鋼であろうと、鉄であろうと、木材、人体、水、石、空気、植物、動物、物質などすべてにおいて、ミクロから表面にやって来ます。では、それらはどこへ逃げるのでしょうか? 厖大な功はすべてのものに及んでおり、みな表面に向かっています。それらはどこにも身を隠すことができないと分かっています。では、どのように存在しているのでしょうか? 憑依しているものはいませんが、人間の形象に化けて街を歩いているものがいます。あなたもそれを見分けることはできません。また、どこかに隠れて出てこないものもいます。しかし、数はすでに非常に少なくなりました。今までそれらは自分を隠すことができ、空飛ぶ円盤で別の空間に行くことができましたが、別の空間がすでにすべて解決され、厖大な功がここに向かって移動しているため、それらはすでに隠れることができなくなりました。この空間のどこかの洞窟、海底に隠れるしかありませんが、それでも隠れることはできません。いずれにせよ、それらが直面している問題はこのようであり、すべての生命はこの出来事の中で自分の位置を決めています。

弟子:常人社会の科学は間違っていますが、私たちは常人の知識を勉強せず、直接修煉に入ることができるでしょうか。

師:別の角度から言えば、知識によって高まることもできます。人に分かってもらうために、私も現代人の観念を用いて説法しており、知識の面において人の思考の幅を広げ、法を得ることにも有益なのです。教育レベルの低い人なら、私が話している現代の用語をなかなか理解できません。しかし、それがなければいけないというわけではありません。もし現代のこのような科学によってもたらされた文化がなければ、私は古代の言葉で説法し、今日のこのような方式を使いません。しかし、現在の社会がすでにこのようになったので、皆さんは常人社会の状態に符合して行動すれば大丈夫です。というより、今そうするしかありません。修煉者として、大人であろうと、子供であろうと、どんな環境においてもするべきことをすべてきちんと行うべきだと思います。学生であればよく勉強し、勤めている人であれば、仕事をきちんとこなすべきです。もし何かの特別な形式を作り出せば、皆さんの修煉形式もそれによって変化するので、生活と修煉に困難をもたらします。宇宙人が自分の目的を達成させるために、人間にそれらの科学を与えましたが、神がすべてを掌握し、逆にそれらをも利用していることを皆さんは知っておかなければなりません。

弟子:修煉に大量の時間を割いて、常人の仕事に時間をかけないようにすべきでしょうか?

師:このような概念ではありません。できるだけ常人の勤務時間に従い、自分の仕事をこなしてください。いくら忙しくても、煉功と本を読む時間はあるはずです。精進している弟子として、余暇を修煉に多く使わなければならないと思うべきです。

弟子:わざわざ複雑な環境を見つけて修煉する必要があるでしょうか?

師:そうする必要はありません。人為的に何かをしようとして、自分で修煉の道を按排してはいけません。人為的にこうしたい、ああしたいと思わないでください。皆さんの道は私が按排していますが、修煉したければこのようにしてください。するべきことをすればいいのです。中国では、煉功してから急に身だしなみを気にしなくなった人がいます。本来きちんと身だしなみを整えて、人間らしくしなければなりませんが、だらしなくして、甚だしい場合、羞恥心さえなくなるようでは、これではいけません。今は張三豊が道を修めていた時代ではありません。皆さんは今日、常人社会で修煉しており、少なくとも人間らしくしなければなりません。神は人間を超えているので、さらに良く行うべきで、いかなる点においても、もっと良く行うべきです。決して煉功したからといって何も構わなくなり、毎日だらしなく、汚くしてはいけません。ある意味では、あなたは大法のイメージを損ねることになります。そうではありませんか? ですから、今回法会を開いた時、みな身なりに気をつけて、だらしなくならないようにと責任者に伝えました。そうでしょう? 中国の経済状況はここ数年でだいぶ良くなったので、良い服を着ることもそれほど難しいことではありません。私に言わせれば、必ずしも良い服を着るようにとは言いませんが、少なくとも身だしなみに気を配り、清潔なものを身につければいいのです。私たちは常人社会で修煉していることを心に留めておいてください。このことは問題にならないと思います。修煉に関して、自分で自分の修煉環境を按排しないでください。

弟子:四歳の子供は天目が開いたので、法輪と先生の名前が光っているのが見えますが、時には非常にわがままで、大人が自分の言う通りにならないと、すぐ大泣きして騒いでしまうので、それを見ていらいらしてしまいます。

師:「いらいらしてしまう」とあなたは自分で書きました。いらいらしていれば、つまりあなたの心が動じたのであり、子供はあなたの向上を手伝っているのではありませんか?

弟子:二歳の子供は法輪を見た時、非常に興奮して「法輪だ」と言い、また先生の写真を見た時「師父だ」と言っています。いつも床に座って合掌して「煉功する」と言います。先生の説法テープをかけたら、「師父の話を聞いて」と言います。

師:この子は普通の子供ではありませんね。なぜなら、まだ二歳だからです。このような子供は法を得に来ているのかもしれません。四、五歳、五、六歳で修煉が良くできている子供弟子がとても多く、非常に不思議です。また多くの子供は優れた神通を持っています。どの家が未来に法を得るのか、上にいる神にははっきり見えています。「ああ、この家の人が法を得るのだ」と。それで彼は按排して転生してくるかもしれません。転生すれば法を得られるからです。

弟子:病院は、他の場所より業力が大きいのでしょうか?

師:常人社会の病院、病気を治療する機関として言えば、病の気は少し多いようです。しかし、煉功者として何を恐れるのでしょうか? われわれ煉功者には関係なく、私たちに害を与えることはありません。

弟子:病院で病理解剖をするのは、煉功者にとって良くない影響があるでしょうか?

師:もし、それがあなたの仕事であれば、してください。大丈夫です。もう死んだ人だからです。最大限に常人社会の状態に符合して修煉するように言いました。修煉したからといって、常人社会のすべての形式を変えてしまってはいけません。

弟子:口では人を罵っていないのですが、心の中で罵っています。これも徳を失うのでしょうか?

師:「私の修煉は良くできていて、行いも良い」と言う人がいます。しかし、その人の心にある執着は少しも放下されていませんが、それは修煉と言えますか? それは偽りの修煉ではありませんか? 本質的な変化こそ本当の変化です。表面上のものはすべて形式なのです。口で罵るかどうかは形式であり、心が変わったかどうかが本当のことです。心で罵っていれば、心は当然変わっていません。徳を失うかどうかは、大したことではありません。大法は常人の徳を保つために伝え出されたのではありません。

弟子:毒のある動物などの生き物を恐れている学習者がいますが、この心を取り除かなければ圓満成就できないのでしょうか?

師:これは別のことです。その恐怖心を取り除けばいいのです。しかし多くの人はそれを恐れているのではなく、汚いから嫌がっているようです。この汚さは糞便を見るときに感じた不潔感ではなく、良くないものだと思って感じた汚さなのです。未来の世界、未来の宇宙にはこのような生き物は存在しません。皆さんに教えますが、宇宙の初期には、このような毒を持つものや悪いものはいませんでした。後になってどうして現れてきたのでしょうか? 生命の業力がますます大きくなり、生命がますます悪くなったため、宇宙もますます複雑になり、生じた良くないものもだんだん多くなり、毒性もだんだんと強くなってきました。このような発展の過程です。

弟子:「悟」という経文に「倆倆相継而来リャンリャン シャンジー アーライ」という文がありますが、「倆倆」はどのように理解すべきでしょうか?

師:これは中国古代の文法です。中国古代の文法は、物事をうまく説明することができ、文字は簡潔で、説明される意味は深く、含まれる内涵も大きく、最も優れた文字なのです。昔の人々は、それを天上の言葉、天上の文字だと呼んでいました。現在の人類は道徳が退廃し、駄目になったので、現代文を使うようになりました。「倆倆相継而来」を解釈すると、つまり三人が一緒に、または二人が一緒に来るという意味です。ある人は他の人と相談して、「この法はとても良いので、一緒に修煉しにいきましょう」と声をかけると、その人もこれが良いと思ってやって来ます。彼はまた家族に教えて家族を連れてきます。このように皆は三人か二人で一緒に来ました。現代文で解釈すると、これほどの言葉を費やしました。「倆倆相継」でやって来たという言葉を使えば、四文字ですべてを概括できます。つまりこの意味です。「相継」というのは、つまり異なる時間に続々と、続けて、絶え間なくやって来るという意味です。相継を解釈するにもこれほどたくさんの言葉を使いました。

弟子:書店を営む大法弟子は、卸値で大法の本を仕入れ、小売価格で販売してもいいでしょうか?

師:この間、私はあることについて考えました。中国には最近、一時帰休(実は失業)の労働者が比較的多くいますが、その中のごく少数は私たちの学習者です。のちに私は、彼らに法輪大法の書籍を販売させたらどうかと考えました。彼らの生活問題を解決できるだけでなく、学習者が本を購入する問題も解決できます。すでにこのようにした学習者もいます。後になってよくよく考えると、どこかおかしいと思いました。どうしておかしいのでしょうか? 皆さん考えてみてください。大法は私たちを済度することができますが、これほど神聖な大法なのに、私たちはそれで金儲けをしようとしており、これでは、自分をどこに位置付けたことになるのでしょうか? 法をどこに位置付けたことになるのでしょうか? これではいけないので、やめさせました。それではどうして社会ではこのようなことをしてもいいのでしょうか? 私が常人社会を利用して法を伝えているからです。常人社会も法の最低次元における表現形式であるため、社会の各業界はこのように存在していますが、これは間違いではありません。私たちの本に背後の内涵がなければ、紙に活字があるだけで、普通の本にすぎません。背後に内涵があるので、法としての作用があるのです。常人社会の書店や、業者が販売することは問題ではなく、つまり常人社会の層の法に符合しています。弟子として、確かにこのような問題があります。私たちは法を利用してお金を儲け、しかも本を買う人の多くはわれわれの弟子ですから、このお金をどう使えばいいのでしょうか?

 もし、もともと書店を経営しており、この便利な条件を利用して大法の本の販売をするのであれば、そして、昔から書店を経営し、大法のためにわざわざ開店したのでなければ、私も反対しません。なんといっても以前から書店を経営しているからです。しかし法に対する認識が深まるにつれて、あなたは新しい方法を採るようになると思います。

弟子:先生に会いに行くために、何もかも顧みずに家族と大喧嘩しましたが、これは正しいのか、それとも間違っているでしょうか?

師:もし、あなたが中国大陸から来たのであれば、多分来させないようにしているのかもしれませんが、私の法身が、あなたが落ち着いて修煉できるように、来させないのかもしれません。もし中国大陸から来たのでなければ、あなた自身に他の原因があるかもしれません。あなたが法に対して確固とした信念を持っているかどうかを見ているのかもしれませんが、どんな可能性でもあり得ます。これは自分で悟らなければなりません。

弟子:修煉の時間を大切にしなければならないと分かっていますが、子供もほしいのですが、これは執着でしょうか?

師:私たちは最大限に常人に符合しながら修煉すると言いました。現在すべての若い修煉者は数千万もいると思いますが、みな結婚せず子供も産まなければ、それは常人社会に対する一種の破壊ではありませんか? 少なくとも、あなたは常人社会の形式に符合しながら修煉していないと言えます。しかし「私は生涯結婚するつもりはない、そう決めました」という人もいます。その場合、私も反対せず、このように修煉すればいいのです。あなたの生活や他の面に余計な負担やトラブルをもたらさなければ、私は何も構いません。この世のことは自分で決め、行わなければなりません。子供がいても修煉の邪魔になることはないと私は思います。そのようなことはありません。

弟子:圓満成就に何種類の形式があるのでしょうか? それぞれの形式もみな本体を持っていくのでしょうか?

師:このことについて、私はすでに説いたことがありますが、法輪世界に行く人だけが身体を持っていきます。他のところに行く人の場合、皆さんの多くが異なる次元の異なる境地から法を得に来たのですが、上の世界では身体を持って戻れば、神佛は奇怪なものを持ってきたと思ってしまうので、その世界に身体はなく、必要もありません。もしこれを持って戻れば、そこの修煉のものを破壊してしまいます。気をつけてください。どこから来たにしても、私はただ皆さんが元々持っていたものを新しくし、最も正しい法をもって同化させるのです。皆さんの修煉の表面にあるものにいたっては、私は何も手をつけないので、これで皆さんは元のところに戻ることができるのです。つまり、あなたは佛であれば佛になり、道であれば道になり、神であれば神になります。あなたの形象、過去のすべてはみな変わらないのです。過去に果位がなかった人は今回を通じて果位を得ることができ、行くべき所に行くように按排されます。

弟子:煉功の時にいつも同じ音楽が聞こえますが、それは大法の音楽ではありませんが、他の空間の信息に邪魔されるのを心配しています。

師:他の空間の音楽は私たちの修煉の音楽とは違います。しかし他の空間には確かに美しくて素晴らしい音楽があります。聞こえたら聞こえたで気にしないでください。それは他の空間の音です。心配もしないでください。音楽そのものは修煉を代表するものではありません。皆さんが大法を修煉するとき、この音楽を聞きながら煉るようにしました。目的は、まだ入静できないとき、一念をもって万念に代えることです。つまり、音楽を聴いている時、妄りに考えずに、音楽を聴いているだけになり、これは皆さんの煉功にいいのです。しかし、それは私たちの煉功の音楽でなければなりません。

弟子:身体が一種の妨害を受け、言葉や画像のようなものですが、すでに半年も経ちましたが、ずっと突破できていません。

師:もし、あなたが本当の修煉者であれば、当初どんな考えや目的で大法を始めたとしても、それを放下しなければならず、何も気にしないようにすべきです。そのことを解決するために、大法を始めたのではないということを、あなたははっきりと認識しなければなりません。私がこの法を伝えだした目的は、人を済度し、修煉させ、元に戻れるようにするところにあり、常人の身体の問題を解決するためではありません。これは非常に厳粛なことです。自分が本当に修煉すると決心したなら、初めてどんな問題でも解決してあげることができます。ただ常人の何らかの問題を解決するためであれば、何も解決してあげることができません。一言で言えば、つまり法は修煉のためのものです。例えば、ある人は法輪功が病気治療をしないことを知り、「病気治療をしないのですね。分かりました。それなら病気治療のことに触れず、治してほしいとも言わず、煉功さえすれば、師父は必ず私の病気を取り除いてくださる」と、心の中でまだこのように考えています。皆さん見てください。彼は「煉功さえすれば、師父がきっと病気を取り除いてくださる」と心の中でまだ思っています。彼の心に深く埋もれているものがまだ存在しており、私に病気を構ってほしいと、やはり思っています。つまり、彼はまだ自分の病気に執着しています。真に放下して何も考えず、気にもしなければ、どうなるのでしょうか? 「求めずとも自ずから得る」と言います。いかなる修煉形式、修煉方法もこのようです。常人社会のいかなるものも、努力やそれに執着することによって手に入れることができ、ひいてはさらに執着し追求してしまうかもしれません。しかし、他の空間ではちょうど理が逆になっており、正反対なのです。どうしても得ようとして、執着して行動に移そうとするとき、何も得られません。まさに放棄すればするほど、何も気にしなくなったとき、初めて得ることができます。ですから、これは「求めずとも自ずから得る」と言います。

弟子:師父がシンガポール法会で大手印を打っていらっしゃった時、気持ちがよいと思う人、素晴らしいと思う人、悲しく感じ、心が痛んで涙を流す人がいましたが、修煉の次元と関係しているのでしょうか?

師:ほぼそのようで、大体そのようです。人によって感じたことや悟ったことは違います。

弟子:修煉して圓満成就すればみな、無私無我の境地に至るわけですが、どうしてまだ次元が違うのでしょうか?

師:このように説明しましょう。修煉して初果羅漢になることも圓満成就であり、自分自身の解脱さえできればいいのです。衆生を普く済度し、他人の面倒を見ることも考えず、修煉者自身が努力して圓満成就すればいいと思っています。これが初果羅漢です。もし菩薩の果位に到達しようとすれば、それが初果菩薩であっても、必ず大いなる慈悲心が現れるように、大慈悲を修めなければなりません。自分が解脱するだけでなく、他の人も解脱できるように手伝います。それができるかどうかは別として、衆生を見て彼らが苦しんでいると感じ、涙を流してしまう心を持つようになります。これは見せかけのものではなく、本当のものです。あなたはこの時、何の心も念も動かしていません。もちろん、修煉の時、常にこのような状態が現れてくるわけではありませんが、現れてくることがあります。もし、あなたが圓満成就して佛になれば、あなたの慈悲心も変わり、慈悲心がありながらも、菩薩が衆生を見て涙を流すようなことはありません。さらに、あなたは衆生の因縁関係が分かり、さらに大いなる智慧をもってすべてを見ています。如来佛より次元の高い佛まで圓満成就したとき、振り返って見ると、この慈悲心は何でしょうか? 彼には佛の常人に対する慈悲も執着に見えます。彼より下の神たち、佛たち、佛の世界にいる衆生のみに、慈悲の心を持っていますが、人間に対する慈悲はありません。慈悲がないと言っているのではなく、彼の境地があまりに高く、下の生命が微生物にも及ばないほど小さいので、低能である人間が何かに役立つ生命とは全く見ていません。さらに高い境地に到達した佛は振り返って、「おや、如来佛もみな常人だ。この人たちは下で何をしているのか?」と思います。彼には人間が何に見えるのでしょうか? 人間は何ものでもありません。人間は極めてミクロ的な生き物のように土の中でうごめいています。さらに更に高い境地にいる佛の状態に到達しようと思えば、修煉してその境地に到らなければなりません。私はただ、佛の最も簡単な状態の現れを話しただけで、これだけではありません。

 皆さんにまだ人間の心があるので、真の法を人に知らせることはできません。異なる境地にいる生命は異なる状態があり、しかも、生命の物質的な身体の一面も絶えず変化しています。もし、佛の身体が原子から構成されたとすれば、佛より次元が高く、さらに次元の高い佛、神の身体は中性子に当たるもので構成されているかもしれません。さらに次元が高まっていくと、中性微子、クォークで構成されているかもしれません。これは人間が認識できるミクロ的な状態です。さらにミクロ、さらに更にミクロ的な物質によって構成されたものはどうなるのでしょうか? エネルギーはさらに強くなり、物質の粒子が小さければ小さいほど、その密度も高くなるので、見た目はきめ細かく、光沢があるように見えます。私たちが人間の身体を見ると、まだ毛穴が見えますが、神の身体を見れば毛穴がありません。人間より次元が一つ上の三界内の生命、つまり三界の異なる次元にいる天人の場合、彼らの身体は人間から見ると、本当に滑らかできめ細かく非常に美しいのです。これは彼の粒子が世の人々に比べて粒子が小さく、密度が大きいからです。言い換えれば、彼が絶えず昇華するにつれて、すべての表面にある形式も昇華しており、境地の昇華が先決条件なのです。圓満成就には異なる境地があります。どの次元まで修煉したとしても、あなたの次元より下の次元は、あなたにとってすでに迷いではなくなり、すべてを見ることができ、すべての真相が見えます。しかし、あなたの次元より高いすべてのものは、あなたにとって永遠の謎であり、永遠に分かりません。これはすなわち、あなたが実証した果位であり、払った代価や修煉の程度に応じて、得るものが決められます。

弟子:修煉は厳粛なものだと分かっていますが、苦を楽とみなし、いつも喜び楽しんで修煉していますが、これは間違いでしょうか?

師:間違っていません。もし修煉の過程で常に喜びを保つことができ、どんな困難に遭ってもこのようにすることができれば、本当に立派だと思います。皆さんもきっとあなたが素晴らしいと思い、感心します。これはなかなかできないことで、どんな困難を前にしても心が動ぜず、楽観的に対処することは非常に難しいのです。しかし厄介なことや関に遭っていないときでも、常に楽観的な態度、慈悲の心を保つことは修煉者が平素から備えるべきもので、最も良い状態です。

弟子:煉功者は結婚後、夫婦生活があってもいいのでしょうか?

師:あなたが常人の中で修煉しており、専業の出家修煉者でなければ、常人の状態に符合して生活すべきです。私たちは常人の中の物質的な形式を重く見ていません。なぜでしょうか? 私たちが変えているのは人の心だからです。人の心が変わらない限り、すべてが偽りのものになります。表面上すべてなくなっても、心の中でどうしても放下できず、これらのことに対して心が動いているようでは、何の意味もありません。心に何もなく、これらが人間のものを維持させ、人間の状態を維持させるものだと思っているのであれば、私に言わせれば非常に良く行なっていると思います。もちろん、高い次元まで修煉したら、これらのものはみな放棄しなければなりません。それまでの間にどのように行なっても、間違いとは言えません。『轉法輪』の中で私はすでにその状態をはっきりと説きました。

 なぜ、修煉の過程でこのようにすることができるのでしょうか? 私たちの法門、私が今日伝えているこの大法は、わざわざ複雑な常人社会で修煉するようにしたため、さらに高い次元の人が元に戻ることができるのです。もし、この常人社会の複雑さが足りなければ、つまり大きな難や妨害がなければ、さらに高い次元から来た皆さんは永遠に元に戻ることができません。法が大きく、また常人社会で伝えられることで、この法はあなたが常人社会で生活できるための便利な条件を提供しました。つまり、あなたのミクロ、あなたの生命の本源から、すなわちあなたの生命を構成する本源の粒子から身体を変えており、木の年輪のように中心から外へと広がっていきます。修煉さえすれば、基準に達しさえすれば、年輪のように外へと広がっていき、表面にまで広がった時、つまり木の皮まで到った時、すべてが変わり、あなたはその時、圓満成就するのです。まだ木の皮まで到っていない間、つまり、あなたの身体の最も表面にあるこの物質的な身体に到る前、表面上あなたの物質的な身体にまだ常人の考えが存在しているので、きっと常人の各種の欲望、常人の色欲、情、各種の執着があるのです。常人ほど強くありませんが、存在はしています。それはあなたが修煉する時、常人の環境に符合できるようにわざわざ残してあげたのです。しかし、修煉してでき上がった一面は常人の表面の身体に動かされ、常人のことをするようなことはないので、修煉してでき上がった一面は基準に達した時、すぐに隔離します。

 隔離した後、何かよいことがあるでしょうか? 人間の表面にある一面が常人の中でいくら活動しても、どんなことをしても、修煉してでき上がった一面はただそこにじっと座っており、念や考えを動かすことなく、身体も動かず、いかなることにも参与しないのです。これで人間が常人のことをするとき、神の一面は何もせず、人間のまだ修煉してできていない一面が活動することになり、そのため、絶えず向上し、落ちることがないように保障することができます。逆に、もし常人社会で表面から奥に向かってあなたを変える方法を採れば、あなたは全く常人社会で修煉できなくなります。変化した身体はすなわち神の身体になっているので、あなたの常人社会における一切の行為は、みな神が行なっていることになり、神が常人のことを行うことになります。それではあなたは全く修煉できなくなります。神が常人のことをすれば、大変なことになり、神が常人の情を持つことは、決して許されないことです。ですから私たちはこの事を逆にして、生命の本源からあなたを変え始め、このようにして絶えず表面へと広がり、広がり、広がっていきます。あなたが圓満成就するまで、表面上あなたは常人の中での生活状態を維持し続けることができますが、次第にますます淡泊になり、より一層淡泊になり、最後にはどんなことでも淡泊に見て、放下できるようになり、これで圓満成就に近づいていきます。全体が表面まで広がった時、あなたは完全に圓満成就しますが、その瞬間、何の震動もなく、非常に自然です。昔は、修煉して圓満成就する時に震動があったのです。人が圓満成就する時は、山崩れ、津波、また広範にわたって地震が起きるのです。私たちのような修煉方法で圓満成就する場合、震動がないので常人社会を妨害せず、より多くの人が常人社会で修煉することに適しています。これほど多くの人が圓満成就したら、地球が耐えられなくなるので、各方面において常人社会で修煉できるように按排しました。

 修煉してまだでき上がっていない部分が表面まで進んできていない時、自分の常人の心がなくなったと言っても、私は信じません。それは無理強いでやったことです。高い基準をもって自分に厳しく要求し、煉功者らしい振る舞いをすればいいのです。同時にできるだけ常人社会の形式に符合して行なってください。しかし、私が説いたこれらのことも、ただこの質問に対して言っているだけでなく、夫婦生活に関しては短絡的にこのようにしなければならないということでもありません。このことに関して、皆さんは自分にとって最も便利な方法を取ればいいのです。いいと思うようにすればよいのです。自分に常人の心がまだあり、しかもかなり強烈で、まだ結婚や、相手を探したいと思ったり、ある女性を好きになったり、ある青年を好きになったりして、この心をまだ持っていて、このようにしたければ、つまりあなたはまだそこまで修煉できていないということを物語っているので、このようにしてもいいのです。今日で何もかも放下し、必ずやり遂げて、すぐにでも成佛したいと思わないでください。そうであれば、あなたにはもう修煉の必要がなく、あなたはすでに佛なのです。ですから修煉はゆっくりと修めることで、漸進の過程です。私はこのように話しましたが、圓満成就するまで、表面にみな常人の七情六欲があると先生がおっしゃったので、このようにすれば大丈夫だと思ってはいけません! あなたに七情六欲があり、私もできるだけ常人に符合して行なってくださいと教えましたが、修煉者としての基準をもって自分に厳しく要求しなければ、修煉していないことになります。つまりこのような弁証的な関係です。

弟子:白人の学習者はすべての時間を利用して法を勉強したいのですが、同時通訳付きの説法テープがまだない状況で、自分で『轉法輪』を朗読し、録音したものを聞いてもいいでしょうか?

師:このようにすれば効果が良くないかもしれません。なぜ良くないのでしょうか? 私が説いた法に力があるからです。あなたが修煉者で、圓満成就する前、語った話の中に各種の常人の信息が入っているため、それを発し、再び自分に取り入れ、このように繰り返し、交差する汚染は良くありません。本を読むなら別です。今、私たちは同時通訳の作業を急いで進めていて、もうすぐできるので、この問題はもうすぐ解決されます。いずれにせよ、私はこの道理を教えていますが、つまりあなたの語る話には自分の常人の各種の心、各種の考えがあります。法が何らかの働きをしなければならないので、表面の道理だけを聞いても大したことが分からないのです。あなたが語るものはあなたの境地における認識であるため、またそれを聞くと、あなたは永遠にその境地での認識に留まってしまいます。同時通訳なら違います。なぜならば、私の声も入っているからです。私の声は小さく、同時通訳の声は大きいのですが、実はそれは通訳しているだけで、本当のところは私が説いています。学習者が聞いて分かるだけでなく、私の説法に付随したすべてを受信できます。この意味です。

弟子:三歳から五歳ぐらいの女の子が三回現れたことがあります。私が半醒半睡の時、彼女は枕の上で笑いながら跳ねていました。これは法輪から出てきた嬰孩なのでしょうか?

師:この情況はみな良いことですが、絶対良いことだとも言えません。嬰孩は非常に小さいのです。私たちの昔の背景はみな極めて複雑なので、このようなことを気にしないでください。以前から連れてきたのかもしれず、他の原因があるかもしれません。女の子であるにすぎませんが、良いことかもしれません。彼女のことを気にせず、ただ修煉に専念してください。

 私はまだはっきり説明していないようで、まだ分かっていない人がいます。例をあげて説明しますが、この情況に一致していないかもしれません。私たちが下の世界へ転生する時、以前の子供がついて来る場合もあります。しかし、子供は転生せずについて来るだけです。また前世に子供がいて、その人は転生しましたが、子供は転生しなかったのです。しかし、霊性があり、いつもついています。このような情況もあり、どんな情況もあり得ます。あなたが正法を得たので、もしあなたと因縁関係のあるものであれば、このすべてを按排してあげます。すべてを周到に按排してあげますので、これ以上これらのことに構わないでください。

弟子:いくら考えても質問を出すことができませんが、修煉が良くできていないのでは……

師:修煉が良くできている一部の古い学習者は、私に会うと何も話せなくなりますが、胸がいっぱいで苦しんでいるのに、何も話せないと分かっています。私に会う前にたくさん聞きたいことがあるのに、いったん私に会うと言葉が出てきません。その理由を皆さんに教えます。修煉者であれば、私に会うとみな、こうなります。私に会うと何も話せなくなるのは、皆さんが絶えず修煉する中で、修煉によってはっきり分かった一面、修煉してでき上がった部分が隔離され、まだできていない部分と隔離されるからです。ですから、修煉してまだできていない部分は永遠に分からないので、質問があり、さらにはそれを聞きたいのです。しかし私に会うと、師父に会ったので、修煉してできた部分が元気になり、あなたの常人の一面も完全に支配されます。ここに座っている皆さんは、どうして良くない考えがなく、和やかなのでしょうか? つまり修煉してできた部分が元気になり、身体全体がその部分によって制御されているからです。修煉してできた部分が基準に達していなければ、それはできたと言えますか? つまり修煉してできた部分は何でも知っていますが、できていない部分は分かっていません。要するに、その時あなたはもう聞きたいとは思わなくなり、聞きたいことがなくなり、何もかもが明瞭に分かっているのです。いったん私から離れると、修煉してできた部分はまた制御しなくなり、静止して動かなくなるため、あなたのこちらの一面はまた分からなくなり、「どうしてさっき、先生に聞かなかったのか!」と思ってしまいます。このような状態ではありませんか? 実はこういうことです。

 皆さんに教えますが、本を多く読み、多く読み、多く読み、必ず本を多く読んでください。これは宇宙の法であり、古から今日まで、常人社会で伝わっているいかなる法門も、如来の境地および如来以下の法しか伝えていません。これほど大きな法は、宇宙の異なる生命に異なる生存環境を切り開きました。宇宙全体を造成したこれほど大きな法の境地にあなたは達していないため、それほど高い内涵を読み取ることができないだけです。しかし果位を得ることができ、圓満成就することができれば、知るべき一切はその中にあるので、必ず本を多く読み、多く読んでください。もちろん、古い学習者は問題があれば本を読めば、きっと解決されるとすでに分かっています。新しい境地で新たにさらに次元の高い質問が現れてきますが、本を読めばまた解決してくれます。さらにこの境地に質問が現れたら、本を読めばまた解決してくれます。このように絶えず修煉し、絶えず昇華していきます。問題があれば、この法は回答を与えてくれるので、日常生活の中で自らに厳しく要求し、絶えず向上していけば、あなたはすなわち勇猛邁進して精進の中にいます。

弟子:名、利、情の根源は利己心なのでしょうか?

師:名と利は、みな利己心です。情について、私は今までの説法ですでに説明しましたが、情は私たちのこの層の人類空間と三界内に充満しています。三界内のあらゆる生命も情から逃れることができず、みな情の制約下にあります。人間はまさしく情の中におり、情に執着すればするほど、情の力がますます強くなり、作用もますます強くなります。特に親友に死なれたとき、あるいは若者が失恋したとき、考えの中で情のことを思えば思うほど、情の力が強くなります。情は三界内のもので、修煉者は必ず情から抜け出さなければならず、情を放下し、超越すべきです。この利と名にいたっては、それは人間が重く見ているものであって、実は同じく情に由来しています。名があれば、名によってもたらされる幸福を享受することになるのではありませんか? そのため喜んだりしますが、名、利を求めているのは自ら満たされるためではありませんか? 満たされると喜んでしまうのではありませんか? この喜びもまた情ではありませんか? ですから、それはあなたに喜びや名誉を与えることができるので、情ではありませんか? 利益に満たされたら、また喜んでしまうのではありませんか? これもまた情なのです。人間はこの情のために生きています。常人の中で喜んだり、気分を損ねたり、何かに反対したり、賛同したり、何かを欲しがったり、欲しがらなかったり、ある状態に達しようと思ったり、あるものが良いと思ったり、思わなかったり、そうしようと思ったり、思わなかったりすること、このすべてはみな情です。人間は情のために生きていると言われています。人類社会に情がなくていいのですか? 人類社会にもし情がなければ、人間は生きていても面白くなく、本当につまらないのです。人間はこのように生きていくのです。

 私心の問題についてですが、先ほど私が説いた道理を聞いてみな拍手をして、喜んでいました。未来の宇宙は不滅だと話しましたが、皆さんはこれを聞いて喜んでいました。それがなぜか皆さんは知っていますか? 「自分のために計らぬ者は、天地の罰を受ける」と言う人がいます。この言葉を座右の銘としている人もいます。実は皆さんは知りませんが、この「私」は非常に高い次元まで貫いています。「私は何かをしている」、「私は何かをしたい」、「私は何かがほしい」、「私は修煉している」、「私は成佛したい」、「私は何かに達したい」など、昔の修煉者は言っていましたが、実はみな「私」から抜け出すことができませんでした。しかし、皆さんに到達してほしいのは、真の純正、無私であり、本当の正法正覚の圓満成就であり、そうなって初めて永遠の不滅に到達することができます。ですから、皆さんに教えますが、どんなことをしても、まず他人に配慮しなければなりません。他人からお金をもらえば喜ぶ人がいますが「お金をもらうことで相手が不幸に遭ってしまうのではないか? 経済的余裕がなくなってしまうのではないか? あるいはどうなのか」と皆さんは考えようともしません。他人から貰い物があれば、喜びますが、その人のことを考えようとしません。優しくしてくれれば喜びますが、相手のことを考えません。甚だしい場合、相手が極度に苦痛であっても、まだ無理にあなたに優しい言葉を掛けていますが、あなたは全く相手の気持ちを配慮しません。どんなこともあります。つまり、今日修煉し始めたからには、どんなことにも相手を配慮しなければなりません。

弟子:『巻二』の中で、海にも人間がおり、しかも数種類もいると書いてあります。

師:そうです。私たちのこの空間に生活している者もいれば、この空間に生活していない者もいます。海に人間がいるだけでなく、私たちと同次元の別の空間にも人間がおり、中に皆さんと同じような者もいれば、そうでない者もいます。それを人間と呼んでもいいし、人間と呼ばなくてもいいのです。彼らには少しの情がありますが、常人の欲がないので、下半身は物質的な形をしており、上半身だけが人間の形をしています。ですから、彼らは浮遊し、飛び回ったりすることができます。海にいる大多数の人は昔の地球の異なる時期に淘汰された人たちです。元々海底の人間だった者もおり、人間とさほど変わらないのですが、上半身は人間で、下半身が魚の者もいますし、上半身が魚で下半身が人間の者もいます。また、大陸プレートの下にも昔の人間がいて、過去に淘汰され、上がってくることができなくなったのです。世間、つまり地球に淘汰された者なので、その一部はそれほど大きな業がないので、地中に潜り込みました。このようになったので、彼も地中から出ないで、そこで生きていますが、数は非常に少ないのです。往々にして彼らは人間より能力があり、人間ほど迷っていないのです。この話はこのへんにしましょう。面白がらないでください。あなたの修煉とはあまり関係がありませんので、これらのことに構わないでください。

弟子:将来、日本語の大法の新版が正式に発行された後、旧版の訳に間違いがある本はどう処理すればいいでしょうか?

師:間違いがあるとも言えないでしょう。ただ訳が適切でなく、あるいは単語の用い方が正確ではない、このように言うしかありません。どう処理しますか? 処理せず、そのままでいいのです。どんな版も少しもずれることなく、中国語を訳すことはできません。幾種類もの版があったほうが私はいいと思います。読んだ人は「この意味もある、あの意味もある、こういう意味だったのか」と思うようになります。それにはまだ利点があります。このようにしてください。

弟子:臆病は執着心なのか、それとも生理的な要素なのでしょうか?

師:臆病というのも、この宇宙にそのような要素が存在しているので、あなたを恐れさせています。それは他でもなく、恐れと呼ばれています。あなたが恐れれば恐れるほど、この要素は働きかけてきます。意志でそれを克服しなければなりません。これはあなたの意志の問題で、修煉の中でできなければならないことでもあります。

弟子:煉功の時、いつも修煉や、法を広めることや、先生の話などを考えていますが、これは正しいでしょうか?

師:これはある時期に現れてくる状態なので、将来良くなります。

弟子:他の人に代わりに殺生してもらう場合、造った業力は依然として私の身体に付いてくるのでしょうか?

師:もしあなたがこのような仕事をしているのであれば、私はこの場でこのことを話したくありません。私は二篇の経文でこの問題に言及し、明白に説明しましたが、悟らない人がいます。このように話しましょう。皆さんが生々世々にどれくらいの生命に傷害を与えたのか、知っているでしょうか? みな非常に多いのです。法が小さければ、今生では修煉して成就できず、それぞれの世で殺した生命に償わなければなりません。佛教の中では、一世では成就できないと言っていますが、つまり佛教も殺生したら償わなければならないと分かっています。しかし、私たちはあなたを今生で圓満成就させようとしているので、時間がありません。それでは、皆さんが殺した生命はどうしますか? 彼らに与えた苦痛は、皆さんが業を滅し、苦痛に耐えている中で償われるほか、絶対多数の部分は私が消してあげますが、残りの部分は皆さんで償い、この関を乗り越えられるようにします。同時に、皆さんが未来に圓満成就する時、皆さんが殺した生命は、あなたの世界の衆生になります。これでこのことは良いことになりました。もし殺される生命が、将来佛の世界に行くことができると知っていれば、喜んであなたに殺してほしいぐらいです。もちろん、その生命は果位がなく、その世界の衆生になり、あなたの佛の世界の庶民、あるいは動物、花、鳥になります。異なる生命には異なる按排があります。

 しかし、このように話したので、「そうか、それなら、私は殺生しても問題がない」と、逆に理解してしまう人がいるかもしれません。もし圓満成就できなければ、あなたが殺した生命に、あなたは将来永遠に償いきれませんが、これほど大きな業を造ったのなら、償わなければなりません。つまり、極めて苦痛の中で、尽きることなく償うのです。ですから、これは非常に恐ろしいことです。「先生は地獄について話されていない」と、ある学習者は昨日言いました。それは話してはいけないと答えました。これほど神聖な場で、そのようなことを話すのは非常に恐ろしいことです。もちろん、私にとって何も恐れることはありません。しかし、一部の人にとっては非常に恐ろしいことです。ですから、先ほど直接あなたに答えませんでしたが、私はすでにはっきり説明したと思います。

 中国で医学の博士課程に在学している学習者がいますが、解剖実験をやっています。実験が終われば、博士号が取れます。つまり、試験にすべて合格し、いくつかの実験を行い、千匹か五百匹のマウスを解剖すれば、博士号を取れるようになります。彼は、いま法輪大法を修煉しており、殺生が業を造っているのだと分かり、このようなことはできなくなったと指導教官に申し入れました。彼は自分が殺生できないため、学位は要らないと指導教官に言いました。皆さん考えてみてください。生死の関を乗り越えられなければ、圓満成就できません。しかし、決して死ぬ時の痛みを経験してから、初めて生死を放下したと言えるというようなことではありません。それはただの形式にすぎません。私は形式を重く見ておらず、あなたの心を見ており、心から本当にできるかどうかを見ています。皆さん考えてみてください。人間は他でもなく名と利のために、この世で生きています。彼が博士号を取れれば、良い仕事と明るい将来があり、給料も自然と多くなり、言うまでもなく、常人や一般の人より高いのです。人間はこのために生きているのではありませんか? 彼はこれさえほしがらず、これさえ放棄できます。若者として、これも放棄できれば、何でも放棄できるようになり、生死まで放棄できるに等しいのではありませんか? 人間はこれらのために生きているのではありませんか? ここまでできたのは、実は彼が修煉してすでにその境地まで到達したからです。このような人、彼のこのような情況に対して、私はこう話しました。情を放棄できて、名、利まで放棄できれば、どうして殺生を恐れること自体も放棄しないのでしょうか?! これで最後の執着を取り除いたことになるのではありませんか? 私はこの意味を話しています。もしこの境地に到達することができず、生死の関を乗り越えられず、このすべてを放棄できないにもかかわらず、このようにすれば、それは別のことになります。殺生で造ったすべての業を尽きることなく償わなければならないので、それは非常に恐ろしいことです。法理や道理は私がすでに皆さんにはっきり説きましたが、どのように行うべきか、自分で判断しなければなりません。大法の原則として、殺生してはならず、修煉しようと思うならば、殺生してはいけません。しかし、大法はさらに高い境地でも圓容するものなので、法はまた佛の境地での道理を体現しました。皆さんが殺生した一部の生命は、皆さんの未来の世界の衆生になると話しましたが、もし皆さんが圓満成就できなければ、すべては台なしになります! すべては自分で償わなければなりません。このような関係です。ですから、私は高い次元の法を説きたくありません。今説けば、多くの人が私の説いた道理を真に理解できないからです。

 もちろん、法は常人の中の道理を超えており、古今東西の書物を読み尽くしてもそれを見つけることができず、他の経書の中でも見つけることはできません。ですから、皆さんは聞きたがっていますが、くれぐれもそれを知識としないでください。私はあなたの知識を求める心を満たしているのではなく、あなたを済度しており、法を説いています。

弟子:先生はいつも「私たち」という言葉を使っていらっしゃいますが、どう理解すればいいのでしょうか?

師:私は現代の中国大陸の言葉を使っています。皆さんがみな大法の中の一員であり、つまり大法の一員だと思っているので、皆さんのことを「私たち」と呼んでいます。それを聞いて皆さんは本当の修煉に身を投じるようになると思います。このような考えです。

弟子:人間がどのようになったら、精神病になったと言えますか?

師:精神病というのは、自分で自分の身体を主宰することができず、非常に脆弱になり、厄介なことに直面すると、すべて放り出してしまうということです。主意識が寝てしまったかのように、何もかも放り出してしまい、すぐにこの身体を手放してしまいます。この時、常人が言う精神病の状態が現れてきます。なぜでしょうか? 主意識が身体を手放した時は、すなわちその人が理性を失ったということです。それでは、あなたの各種の業力で構成された思想と、後天的に形成された各種の観念は、身体や口、目、そしてあなたのすべてを支配し始め、でたらめなことを言わせたり、気が狂ったような行動を取らせたりします。常人の規範に合った行為は全くなく、人々からは精神病だと言われます。私に言わせれば、精神病は病気ではなく、いかなる病理的な状態もありません。ただ主意識が弱すぎるだけです。先天性の場合もありますが、生まれた時から主意識が弱く、身体が常に他人に支配されており、いつも他人に主導権を預けています。その上、各空間からの強烈な信息の妨害もあり、この人は何でもやりかねません。脳は既成の機械のように、誰にでも操られてしまいます。本人がその制御を放棄すれば、他人が制御しにやって来て、人間としての規範が失われてしまうのです。ですから、人間の意志は必ず強くなければならず、確固としていなければなりません!

弟子:圓満成就の時、本体の転化もなく、元嬰を修め出すこともない人はいるでしょうか?

師:大法弟子の中の多くが異なる次元から来ていると私は言いましたので、異なる状態もあり得ます。しかし、自分がどういう状態であるかは気にしないでください。修めさえすれば、あなたが最も満足できる状態まで達することを保証します。みな同じです。私が皆さんに最も良いものを与えたら、この宇宙に最も良いものを造り出したことになるのではありませんか?(拍手)

弟子:『轉法輪』を読む時、佛、道、神から明白に悟らせられることはめったに感じませんが、着実に修煉する過程で法理を悟ることができます。

師:あなたが悟ることができるから、悟らせなくてもいいということでしょう。自ら進んでそこまでできれば、それが自分で悟ったので、非常にいいことです。どうしても悟らなければ、まだ素質がある場合、どうしたらいいでしょうか? 一言で悟らせるのです。

弟子:最近いつも良くない心理状態が現れ、善の念がなく、思惟も乱れていますが、私は本当にそこまで落ちたのでしょうか?

師:自分を緩めると、業力は気が狂ったかのようになります。あなたの方が強くなれば、それを抑制することができます。それを抑制すると同時に、あなたが本当に行うことができ、修煉者だと私がみれば、あなたの面倒を見なければならず、あなたのためにこれらのものを消してあげます。このような一つの関係があります。自分がそこまでできなければそれもいけません。「なるほど、それを抑制すれば先生が消してくださるので、それなら抑制しよう」と思ってはいけません。先ほど話した病気に対する考えのように、私に業を消してもらうために、修煉するのであれば、それもいけません! いずれにせよ、いかなることに対しても執着してはならず、正念を持つべきです。

弟子:公園で集団煉功する時、功法を教える先生のビデオを流してもいいでしょうか?

師:もしこのような環境があり、政府も干渉しなければ大丈夫です。ビデオを流す時、状況と場所を考慮すべきです。

弟子:一年ほど修煉しましたが、修煉すればするほど脆弱になり、ちょっとした執着でも、心が激しく動じてしまいます。

師:多分、あなたはますます敏感になり、修煉が良くできていないのではないかと心配しているのかもしれませんが、この心も無くし、正々堂々と修煉してください。しかし自分に対して厳しく要求しなければなりません。誰でも修煉の過程で間違いを起こし、乗り越えられない関があるのです。もしどんな関でも順調に乗り越えることができれば、師父である私がよく按排していなかったことになります。ですから、それぞれの関はみな非常に乗り越えがたく、乗り越えられるかもしれず、乗り越えられないかもしれません。または良く乗り越えられるかもしれず、良く乗り越えられないかもしれません。しかし、良く乗り越えられなかったら、あなたは辛く感じ、修煉ができていないと悔やんで、次回は必ず乗り越えられるようにしようと思うのです。次回、再び関に遭い、このような状態の中で、乗り越えられるか、乗り越えられないか、自己を反省し、絶えずこのようにしていれば、つまり修煉していることになります。もしすべての関を順調に乗り越えられれば、修煉しなくてもよくなり、どんな関もあなたを遮ることができず、あなたは圓満成就することになります。しかし、「関を良く乗り越えても乗り越えなくても、修煉さえすればよい」と先生が言ったので、自分を甘やかし、良く乗り越えなくても気にしなくなるようでは、またあなたは修煉していないことになります。このような関係です。自分に厳しく要求しなければなりません。

弟子:どうなれば圓満成就したことになりますか? 常人が死んだようになるのか、それとも師父によって按排されるのでしょうか?

師:圓満成就に多くの形式があります。皆さんも知っているように、釈迦牟尼佛は人間の執着心を最大限に放棄させるため、涅槃を説きました。彼の法門では、人体さえ要りません。つまり人体に執着せず修煉します。チベットのラマ教では虹化を説き、つまり圓満成就の時に座ったまま迎えます。もし身体全体が修煉によって良くできていれば、圓満成就の瞬間に一筋の赤い光を放ち、身体が溶けて消えてしまい、彼自身の元神が修煉してできた佛体を持って去っていきます。しかし、修煉してできた佛体は常人の物質を持っていないため、人には見えず、ただ光や光の影が昇っていくのが見えます。修煉の足りない人は身体をすべて虹化することができません。ですから、そういう人は虹化する時、一瞬にして人の身体が一尺ぐらいの高さの完全な人間になります。本人とそっくりで、一尺くらいの高さで、身体のバランスがよく取れています。これはつまり修煉が足りないので、まだ完全に虹化できなかったということです。

 また別の状態もあります。中国の道家は圓満成就の時、「屍解しかい」を重んじます。屍解とは何でしょうか? 中国古代では大道を修める人が多くいました。大道の修煉法は圓満成就の後、身体を持っていくので、身体を捨てることはありません。しかし、肉体はもはや常人の身体ではなく、完全に高エネルギー物質に取って代わられ、道の身体となります。屍解の方法は、つまり自分がすでに圓満成就したと分かっており、身体のすべてが修煉によって完成します。それでは、彼はどのようにこの世から去って行くのでしょうか? 道を修める人の多くは、常人の中でまだやり残していることを圓満成就してから解決することにしています。佛門はそうではなく、圓満成就の過程でそれを解決します。

 屍解はつまり彼が去ってから、人々が彼を探さないように、仮死状態なりますが、実はその時、彼は天に上がり、地に潜るなど何でもできるようになります。この世から離れる時、「私はもうすぐ圓寂します。修煉はすでにできて、そろそろいきますので、棺を用意するように」と家族に言います。その時刻になると、彼はベッドに横になり、しばらくして息を引き取ります。家族は彼が死んだのを見て、彼を棺に入れて埋葬します。実際には、彼は「目くらましの法」で、神通を用いているのです。その日、家族が見た彼は、すでに本当の彼の身体ではありません。それでは何でしょうか? 彼は靴、箒、あるいは棒、剣などを自分の形象に変えさせます。それは何でも話せます。「私はここで横になり、すぐに息を引き取るので、後で棺に入れてくれればよい」と家族に告げます。実はそれは木の棒、あるいは箒、または靴が話しています。本当の彼はすでに行ってしまいました。遠いところまで行ってしまいました。それで、家族は彼を埋めますが、実は埋められてから、二時間ぐらいで元の姿に戻ります。靴、竹の棒、あるいは木の棒に戻ってしまいます。これを屍解と言います。他の地方から帰ってきた人は、「あれ、商売に行った時、ある遠いところで、お宅の誰それに会いました。話もしました」と言います。家族は「違いますよ。あの人はすでに亡くなりました」と言います。その人は「見ましたよ。彼は死んでいません。確かに会いました。話もして、ご飯も一緒に食べました」と言います。確かに死んだのを見たのにと家族は奇怪に思い、彼が道を修めていたのを知っているので、掘り出して見てみようと棺を開けると、中にあるのは一足の靴でした。

 道家にまた白日飛昇という形式があります。白日飛昇というのはつまり、その人の身体が修煉して完全にできており、この世で圓満成就する前に願も解き、することがなくなったので、世を離れる時が来たということです。この時を、天門開きと言い、つまり三界の大門が開くということです。天神、あるいは龍、鶴などが彼を迎えに来て、彼はそれに乗って飛んでいきます。場合によっては、天の車が迎えに来ます。このようなことは古代には非常に多く見られました。この形で白日飛昇する場合もあります。私たちの法門では、法輪世界に行く場合、白日飛昇という方法を採ります。また身体の要らない法門もあります。身体を与えると、その世界のものがすべて乱されてしまいます。釈迦牟尼が涅槃したように、彼に身体を与えると、涅槃ではなくなります。それではその法門全体をかき乱してしまうのではありませんか? 彼の世界は戒・定・慧という要素で構成されているので、身体は要らないのです。私たちの多くは「白日飛昇とはなんと素晴らしいのだろう。私が飛んでいく姿を人に見せてあげよう」と常人の考えで考えています。あなたは常人の心で神のことを考えており、これでは絶対いけません。つまり、圓満成就には、当然その圓満成就にふさわしい方法があります。しかし皆さんに教えますが、私たちの今回の圓満成就はこれほど多くの人なので、私は必ず信じていない人に深い教訓を残します。ですから、将来私の弟子が圓満成就する時は、人類社会が永遠に忘れることのない壮観な光景となるかもしれません。(拍手)

 このように話しましたが、どんな心も放下しなければなりません。これらのことに構わないでください。ひたすら修煉してください。圓満成就できなければ、すべてゼロに等しいのです。

弟子:『轉法輪』の本の中の異なる字には、背後に異なる佛、道、神がいるのでしょうか?

師:そうです。これは間違いないことです。ですから本を読むようにと皆さんに教えています。ある人は読んで、あ!分かったと思った瞬間、身体に突然震動が走り、熱くなるのを感じますが、それはただ非常に弱い感覚です。実はその時、身体の変化は非常に強烈なもので、中のあらゆるところが沸き立っています。なぜなら、あなたはまた次元を高めたからで、身体には異なる次元の異なる形式の変化があるのです。皆さんも知っているように、中国の廟にある佛像は頭の上にさらに四つの頭が出てきて、またこの四つの頭の上にさらに三つの頭が出てきて、さらに三つの頭の上に一つの頭が出てきます。実はこれは佛の異なる次元に現れる法像の表現形式です。つまり異なる次元での身体に起きた変化は非常に激しいのです。偉大で、荘厳、かつ威厳があり、また限りなく奥深いのです。ですから皆さんに見せないのには理由があるのです。皆さんに常人の心があるため、常人の心で理解し、甚だしい場合、理性を失ってしまうことになりますが、それではいけません。

弟子:握手や身体の接触によって、業力が伝わってくることはあり得るでしょうか?

師:真に修煉している人なら、いくら敏感であっても、相手があなたにいかなる傷害も与えることはありません。修煉している身体はすべてが功なので、功より低いものを恐れる必要があるでしょうか? 境地と次元が随分かけ離れているので、心配する必要はありません。

 人と人との握手、常人と常人の間の接触、握手で確かに業力は伝わります。少なくとも業力がくっ付くことはあり得ます。これは確かなことです。現在、皆さんは握手をしています。握手は西洋の白人社会から伝わってきたもので、東洋人は昔、握手をせず、会ったら片手でこぶしを握り、もう一方の手をそれに被せるようにして胸の前で合わせ、それも良かったのです。女性はこのような方法ではなく、格好が悪いので、右側の下腹部の前で手を合わせました。会うとこぶしを作り、身体を横に引いて、脚をやや曲げます。西洋社会ではルネサンス以後、握手が現れてきたようです。昔、西洋でも握手をせず、それなりの礼節があり、それぞれ違いました。このようにする人もいれば、あのようにする人もおり、種類は非常に多く、いろいろな礼節がありました。握手は後になって形成されたのです。私たちには合掌という佛門の礼節があります。

弟子:修煉してからの一年、めったにトラブルに遭いませんでしたが、このままでは、多くの執着心をどのようにして取り除くのでしょうか?

師:そのようなことはありません。人それぞれ違う状態があり、このような状態、あるいはあのような状態、あるいは……いろいろな方面の要素があると思いますが、くれぐれもこれらのことに執着しないでください。本当に難がやってきたら、なかなか乗り越えられませんが、難がなければまたそれをほしがっています。みな理由があるのですが、実は確かにそれほど多くの難がない人もいます。これも確かなことです。

弟子:私たちの煉功点に数十人いますが、大半は顔色が悪いのです。私たちは着実に修煉を実践していないのでしょうか?

師:煉功点によってはとても良くない場合があり、学習者の間で噂話やでたらめな悟りを広げるところもあります。本来私の説いた法とは全く関係のないことでも、でたらめに悟り、学習者を率いてあれこれと妄りに思索を巡らしています。さらにこの法がどうとか、この段落、あの段落はどうとかと話したりして、法について議論するという具合です。人間に法を議論する資格があるのでしょうか? 少なくとも、あなたにはまだ人間としての考えがあるので、このようなことをするのは間違っています。私たちは他でもなく、大法に則って修め、本を読み、集団で煉功するのです。多くの時間は法を読むことに用いて、自分の体験を語ることにあまり時間を費やさないようにしましょう。あるいは煉功が終わったら互いに語り合っても結構です。修煉や法を読む時間を使って体験を語り合うのは、私が思うには、良くないことです。人によってはその語るものの中に、各種の個人の念や情緒を帯びており、甚だしい場合、法から全く離れてしまうこともあります。そのため学習者を違う方向へ連れ込み、さらに妄想に走らせるのです。人間にはみな、常人としての考えがあります。学習者の間では古くからの学習者、新しい学習者を問わず、字面以上の道理を語らせ、教えることはできません。あなたの語ることはなんといっても、字面上の道理、表面的な道理にすぎず、なぜならば、天の法は常人の中で説かれてはいけないからです。ですから、なぜか分かりませんが、そのような人はどのようにしてそれらのでたらめなことを悟ったか分かりません。注意しましょう!

弟子:「印」の訳語は何でしょうか? なぜ「結印」が必要なのでしょうか?

師:佛は印とは言いませんが、それは佛法の一種の荘厳な体現であり、古代のインドから翻訳された時、そのままにした言葉で、「印」と呼ばれています。結印、大手印、小手印は、法像および法語のもう一種の荘厳な表現です。

弟子:私の修煉はもうすぐ一年になりますが、まだ法輪を見たことがないのですが?

師:このように話しましょう。もしあなた自身に何の変化もなく、法があなたにもたらした変化を体験したことがなく、あるいはあなたの知っている、悟った常人の状態を超えるものが全くないと言うのであれば、あなたが修煉者である限り、私はそれを信じません。あなたがどうしても見ようと思い、現れてほしいと思えば、あるいは常人を見るようにはっきりと見え、これほど鮮明に現れてほしいと思えば、まだ無理だと思います。あなた自身の条件、常人の思想状態の相違、および将来の圓満成就の違いに基づいて、一人一人にそれぞれ異なる方法で対処していますが、絶対に千篇一律にはなりません。法輪を見たいという心があれば、その心を取り除かない限り見ることはできません。

弟子:より高い次元の佛が人類など取るに足りないものだと見ているのに、なぜ師父は私たちを済度しに来られたのでしょうか?

師:宇宙の法は宇宙のすべての異なる次元の生命に異なる次元での生存環境を切り開いたので、この生存環境の中には必ず衆生がいなければなりません。常人もこの法が全宇宙のために切り開いた異なる次元の中での最も低い次元です。そこで、私の立場では法全体と宇宙全体を考慮に入れる必要があります。私ははっきり説明したでしょうか?(拍手) ですから、私の立場から、生命や、正の生命と負の生命に対する認識は皆さんのものとは違います。これは皆さんには理解できないことです。

弟子:絶えず法を学ぶにつれ、頭の中の考えがどんどん少なくなり、時には何も考えたくないのですが、これは自分の主意識が弱いからなのか、それとも修煉からずれたのでしょうか?

師:いいえ、そうではありません。これはとても良い現象だともあなたに教えたいと思います。なぜとても良い現象なのでしょうか? 皆さんに教えますが、常人の中で脳の反応はとても機敏で、自分の利益を守り、損失を蒙らないようにするため、その方面の考えはとても敏速で、しかも記憶力もいいのです。言い換えれば、あなたが働かせている脳のこの部分は良くないもので、それが業を造り、とても発達しており、あなたの修煉を妨害しています。ではどうすればいいでしょうか? 私たちはここで、まずあなたの脳のこの部分を抑えてしまうという方法を採っています。言い換えれば、その部分にまず鍵を掛けてから、それを調整します。まず修煉者らしい考えに置き換え、その部分の思想を発達させるのです。そして例の狡猾な部分を調整してから、徐々に開いていき、その時あなたは自分を把握できるようになります。自分自身も自分の良くない考えを意識することができず、その部分はあまりに発達しているので、何かを考える時、すぐその良くない考えに走ってしまいます。脳のその部分は皆さんの修煉に大いに影響し、多くの人にそういった状態が現れますが、それは一時的なものです。あなたがいつも好んで使う部分、つまり自分の利益を守るとか、他人を傷つける考えとか、あまりに発達した脳細胞をすべて封じ込めて調整しているので、このような状態が現れます。しかし、これは一時的なことです。封じ込めてから、それほど発達させず、正常に使用できる程度まで処理します。あなたの正念を持った思想細胞を発達させていきますが、このようなことです。そうでなければ、私はある方言でピッタリ表現できると思いますが、正々堂々とした佛を修める人として、あなたの頭があまりずる賢くてはいけません!

弟子:他人の体験を聞いている時、自分もヒントを得たように感じるのですが、自分で悟り得たものほどしっかりしていないような気がします。

師:そうです。もちろんその通りです。あなたが自ら悟り得たことは自らの修煉でできたもので、それが最もしっかりしています。ただし他人の話もあなたにとって確かに参考になり、あなたを促すので、それにも良いところがあります。法会はいつも開くものではないので、私たちの法会には法会としての良さがあります。体験を語ることを頻繁に行わないでください。法を学ぶことと、本を読むことに精力を集中してください。

 いくつかの質問は比較的レベルの低いものや重複しているもの、また本を読んで解決できるものもあったので、そういったものには解答しないことにしました。時間の関係で質疑応答はこれぐらいにしましょう。(熱烈な拍手)